2.「わが国の風土に芽生えた倫理観

@仏典による教え(般若心経)

この経典は、僅か二百六十二文字の短いお経で有りますが、釈迦如来の一切経の精神がすべておさめられ、仏教各宗の教理が全部まとめて説きつくされていると言われております。それゆえ、このお経の精神を理解することが出来れば、宇宙人生の根本がわかり、私たちの日常生活の規範となるものを明瞭に納得することが出来るのであります。 だから御祈祷の場合には必ずといっていいほど般若心経が読まれ、仏前は勿論、神前に於いてもよく読まれ、社会安寧の保持・家庭平和の維持・自己の向上を願う経典であります。 
般若心経を読誦することによる功徳を「三徳六度」が備わるといわれる。

三徳とは次の三つで

法身の徳

宇宙実在の真実のすがたを、謝りなく知ることが出来る

解脱の徳

社会百般のことについて執着する心がなくなり、何事にも迷わなくなる

般若の徳

因縁の理法を悟ることが出来て万物平等の原理が解り自由な生活が出来る

六度とは、あらゆる人生の苦難を乗り越えてゆく幸福創造の六つの条件で

愛情をもって、すべてのものと和合して愉快に暮らすことが出来る

人として守るべき道徳を実践して、社会の秩序を維持してゆけるようになる

他人のしたこと言ったことについて、無暗に腹を立てることなく、相手の立場を理解する寛容の精神が養われる

自分の仕事に熱心になることが出来て怠け心がなくなる

いつも心が落ち着いてきて、物事にイライラしなくなる

嘘と真実とを見分ける知恵が備わって、生活の安全と、社会福祉の向上に努力するようになる

このお経の題目は「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」といいますが、「仏説」とは仏門であります。釈迦が三十五歳で人類救済の心理を悟り、八十歳で涅槃に入るまでの四十五年間の説法を記録したものが五千巻余りの大蔵経となり、その中の一つが般若心経であります。

 「摩訶」には大と多と勝との三義があり、これを訳する適当な文字はありません。

 「般若」は訳して智恵というのですが、これは一般の智恵ではなく、真理を悟って仏性を証得する仏の智恵であります。

 「波羅蜜多」は到彼岸とか、または度(わたす)という意味であり、迷いの凡夫を悟りの彼の岸へ渡すという意義を有する。度はわたるということであり、乗り越えることであり、人間生活の苦悩を乗り越えるのであります。今、私たちが住んでいる現実のこの世の中は、道徳が頽廃して兇悪犯罪が多く、いたる所にも闘争が繰り返され、交通事故では多くの犠牲者を出しています。また自分自身の身の上を考えてみましても、何事も思うようにならないで、辛いこと苦しいことがいっぱいであります。その状態を此の岸とし喜びに満ちた平和な理想社会を彼の岸とし、此の岸を離れて彼の岸に到るのを到彼岸という。「生死をこの岸とし、涅槃(さとり)を彼の岸となし、煩悩を中流となす」と教えられておりますが、煩悩の流れを乗り越えるための船が波羅蜜多であります。この教えは現実の人間生活を此の岸とし、理想の人間生活を彼の岸とし、此の岸の現状をよく観察し、彼の岸の実状をつまびらかに知る智恵を持つことによって、人類の幸福を築き得ることを教えられたものであります。

 波羅蜜多には、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)
・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の六波羅蜜多があります。(詳細下記)

仏教語 現在語 意味
布施 ボランテイア精神 見返りを求めない応分の施しをさせていただく事をいいます。貪欲の気持ちを抑えて、完全な恵みを施すことです。布施行は物質だけではありません。
持戒 いましめ
ルールを守る
道徳・法律等は人が作り現在はますます複雑になっています。私たちは高度な常識を持ち、瞬時瞬時に自らを戒める事が肝要です
忍辱 はずかしさを偲ぶ 如何なる辱めを受けても、堪え忍ぶことが出来れば苦痛の多い現代社会において、自らが他の存在に生かされていることがわかり、全ての人の心を我が心とする仏様の慈悲に通じることとなります。
精 進 今日の事は今日する 不断の努力をいいます。我々人の生命は限りがあります。ひとときも無駄にすることなく日々誠心誠意尽くすことです。
禅 定 弱者の立場に立つ 冷静に第三者の立場で自分自身を見つめることをいいます。
智 慧 愚痴・ねたみを言わない 我々は本来仏様の智慧を頂戴してこの世に生をうけておりますしかし、貪りや怒り愚痴によってその大切な智慧を曇らせてしまいがちです。布施・持戒・忍辱・精進・禅定の修行を実践しどちらにもかたよらない中道を歩み、此の岸から彼に岸へ・・・

六波羅蜜多のなかで、私たちに最も身近に思える「布施」の教えを取り上げてみることといたします。 「布施」とは、広く一般に施しを与えることであり、困っている人に金銭や物品で援助し、また罹災者に義援金を送るのも教育事業や社会事業に寄付するのも布施であります。 一方、無財の者でも、心掛けしだいで、この授かりもののわが身を他人様のお役に立てられる「無財の七施」があることを教えられます。

@眼施

がんせ

これは眼の施しであり、眼の使い方によって人を喜ばすことが出来ます。昔から「目は口ほどにものを言い」と言われるように、人間の眼というものはそのときの心が現われますから、心の悪い人は「目つきが悪い」と言い、媚びる眼、蔑しむ眼、嚇かす眼、恨む眼、裁く眼、悲しむ眼、それらはみなその時の心の中の思いがあらわれているのですから、相手に不愉快な感じを与えます。だから人に対する時には、まず心を善くして、いつも柔和な親愛のこもった眼をもって相手の人に喜びの情を起こさせるのが、眼の布施であります。

A和顔施

わげんせ

顔は人間のレッテルといいます。たとえ美人であっても、どこか剣のある顔をしておりますと人から愛されません。だから和顔をもって人に接せよと教えられています。優しい打ち解けた顔色で相手の心を楽しくするのを和顔施といいます

B言辞施
げんじせ

これは言葉の布施であります。眼つきや顔つきと同じように言葉づかいも大切であります。丸い玉子も切りようで四角、ものも言いようで角がたつ。というように言葉の使い方で先方の気持がいろいろと変わるものであります。

C身施

しんせ

自分のからだで人に布施をするので、労力奉仕であります。骨身をおしまず他人の手伝いをしてあげることであります。積極的に労力を施すと同時に、他人に迷惑をかけないようにすること、不愉快な感じを人に与えないように礼節を重んずることも大切であります。

D心施

しんせ

「施す物がなくても門に立ち物乞う声をきくならば、哀れと思え物やらずとも」というように、愍れみの心をおこすことが心の施しであります。人を哀れと思う慈悲の心は、人が施しをするのを喜ぶ心となるのであります

E牀座施
しょうざせ

席を人に譲ることであります。それが慈悲心から出たときは布施になるのであります。

F房舎施
ぼうしゃせ

自分の家に他人を泊めてあげたり、また休憩さしてあげたりすることであります。このようなことは現代ではあまりありませんが、昔は随分その必要があったものです。宿泊と休憩だけでなく、来客があった場合に気持ちよくもてなして、お客さんに落ち着いた気分をもたせることも房舎施の一つであります。

私たち人間は必然的に財施もできない、無財施も不可能である身と化します。そういう自己の限界を実感するなかで、懺悔しながら生かされてゆくという時期を体験しなければなりません。そうした、まさに老いの時期を契機に「法施」という布施行は成立し、人々の一生涯のすべては無駄なく布施行そのものであると感知させられます。

A仏典による教え(十句観音経)

『十句観音経(じっくかんのんぎょう)』は、わずか十句・四十二文字で、仏経の全経典の中でもっとも短いものです。  治る見込みがないと医者に見離された重病人が、この経典を千回唱えたら、奇跡的に回復したという話から、
『延命十句観音経(えんめいじっくかんのんぎょう)』とも呼ばれています。

十句観音経

読み方

意味

観世音

かんぜおん

観世音菩薩よ。

南無仏

なむぶつ

み仏よ。帰依いたします。

与仏有因

よぶつういん

私は仏とともにある因や、

与仏有縁

よぶつうえん

仏とともにある縁で生かされています。

仏法僧縁

ぶっぽうそうえん

仏法僧の縁によって、

常楽我浄

じょうらくがじょう

常に楽しくきよらかな悟りの境地を与えて下さい。

朝念観世音

ちょうねんかんぜおん

朝に観世音菩薩を念じ、

暮念観世音

ぼねんかんぜおん

夕に観世音菩薩を念じます。

念念従心起

ねんねんじゅうしんき

その一念一念はたえず心の中にあり、

念念不離心

ねんねんふりしん

心が観世音菩薩から離れる事はありません。