――しょせん俺たちは、かりそめの客なのだ
                   「吸血鬼ハンターD」















 ヴァチカンはますます混迷の度合いを深めていた。
 儀式が失敗した、という報告がヴァチカンにいた全吸血鬼に伝わる速度は実
に迅速だったが、それ以上に門から解放される吸血鬼の怨念が彼等に襲い掛か
る方が幾分速かった。
 犯されて泣き叫んでいた人間の少女が、犯していた吸血鬼の臓腑を抉り出し、
首を引き千切る。刺青を彫り込んでいた吸血鬼が、彫っていた吸血鬼の全身の
皮を剥がし、身に纏って哄笑する。付き従うだけの存在だった女吸血鬼が、主
人である男吸血鬼の血を啜り、ひれ伏す男の顔を踵で蹴り上げる。
 あちこちで銃が乱射され、手榴弾が暴発した。狂笑しながらミニガンを撃ち、
周りの連中を細切れにする吸血鬼がいたかと思えば、手榴弾を抱えて自爆し、
尚且つ蘇生してゲラゲラ嗤う吸血鬼もいた。
 どう見ても十歳を越えてはいない少女の吸血鬼が、父親のような男を従えて、
くすくす笑いながら阿鼻叫喚の光景を眺めている。だが、少女と男に吸血犬達
が襲いかかってズタズタに引き千切り、痙攣する少女の手首を我先にと奪い取
っていた。
 中には犬に混じって這いつくばりながら、少女の首をもぎ取った男もいた。
 首の切断面を舐めて悦に耽っているのは、かつて小児愛好者で銃殺寸前に吸
血鬼となり、そして第十三課に粛清されたロシアの猟奇殺人鬼だ。しかし、少
女の傍にいたチュザーレが、お返しとばかりに、彼の上半身を捻じ切った。チ
ュザーレは少女の首を拾い上げると泣きながら混沌の状況から身を隠した。

 ローマのかつての住人達――喰屍鬼は信じられない数に膨れ上がっていた。
 吸血鬼の指示に従って、彼等全てがローマを離れ、逆にローマに向かって進
撃していたヴァチカン第十三課・マルタ騎士団・聖ヨハネ騎士団・ホスピタル
騎士団・聖ゲオルギオ槍騎士団といった対吸血鬼連合軍を完全に足止めしてい
た。何しろ数が圧倒的である、アンチマテリアルライフルを持つ人間が弾丸一
発で三体吹き飛ばしたとしても、その一人に四体が襲いかかってきては後退せ
ざるを得ない。
 アンデルセンと由美江、ハインケル、そしてシエルやマクマナス兄弟との連
絡もつかない。お陰でマクスウェルの苛立ちは今や頂点に達し、下降し、更に
また二度目の頂点に達していた。

 そして黒き怨念は世界中に拡散し始めていた。
 吸血鬼の匂いを嗅ぎ付けるのか、黒き怨念――邪な魂はニューヨーク、上海
といった吸血鬼が暴れまわっている地区に何処からともなく集合し、次々と吸
血鬼に憑き、そしてやはり吸血鬼へと変貌していった。
 ただし、一つだけ違いがある。
 生きていた吸血鬼より、死んでいた吸血鬼の方が遥かに恐ろしい力を持って
いるということだ。何しろ吸血鬼によっては数百年以上も――怨念を蓄えてき
たのだから。
 世界の主要国家全てに戒厳令が発動、ニューヨークには世界最強を誇るアメ
リカ海兵隊が投入されているが、喰屍鬼や吸血鬼相手に四苦八苦の状態だった。
 何しろ「対吸血鬼」などというマニュアルが存在しないもので、司令官です
ら、どうしていいのか途方に暮れている状態だ。人間相手への誤射も桁外れの
件数に昇っていた。
 パリ、上海、モスクワなども大体同じようなものだった、さすがにニューヨ
ークなどより発生は少数で、この様子だとこれ以上の増殖さえ抑えることがで
きれば、何とか鎮圧は可能かもしれないという状態だ。

 そんな中で、世界が混乱に陥る中で、闇の霧に煙るローマの通りを歩く男が
いた。人形使いと呼ばれた吸血鬼、ナハツェーラー。心臓を抉られかけたもの
の、わずかに残った部分で何とか蘇生を果たした彼は、ローマを当ても無いか
のように歩き回っていた。
 いや、当てはあった……が、その当てが何処に居るのか、それが分からない。
「声を、」
 ナハツェーラーは未だ激痛が止まない心臓を抑えながら空に向かって呟いた。
「声を、お聞かせくださいませ」
 そう言った。誰もいない、何も存在しない黒い空に向けて。もちろん、空は
答えず、他の何かも答えない。あるのはただの薄汚い空と、わずかな雑音だけ
だ。どろりとした絶望がナハツェーラーの全身をゆっくりと包んで行った。
「カーミラ様!」
 呟きどころではない、最早ナハツェーラーは叫んでいた。
「なぜ、お姿を! なぜ、お声を! なぜ、私の元へ現れてくれぬのです!
 私は全てしたぞ! 貴女の仰る通り、貴女の仰った通り、全てをお膳立てし
たぞ! 全て、吸血鬼と人間の世界のバランスを崩壊させてまで、私は貴女を
お救いしようと――なぜ、なぜ――なぜだァ!」
 比喩ではなく、咽喉から血を吐いてナハツェーラーは夜空へ訴えた。解答は、
解答は――。


「それは、彼女(カーミラ)がこの次元に存在しないからだ」


 一人の吸血鬼ハンターの口から、飛び出した。
 ナハツェーラーがはっと振り向くと、そこに馬に乗った二人の男が居た。い
つのまに近付いたのか、気配すら感じなかったのは自分が愚かだったのか、そ
れとも向こうの気配が絶たれていたのか。だが、そんな事を考える余裕も声を
掛けてきた男の冷徹そのものの顔を見て、吹き飛んだ。
 数百年の間、この男の顔だけは一度として忘れたことがない。憎むべき敵だ
った、同時にナハツェーラーはこの男と出会うことを最大限に恐れていた。も
ちろんそれには、彼が凄腕の吸血鬼ハンターだということもある。だが、最大
の理由は、彼こそがカーミラを、自分の親を仕留めた男だということだ。子で
あるナハツェーラーは、カーミラを仕留めたこの男を本能的に恐れていたのだ。
 ただ、ナハツェーラーが彼を恐れるもう一つの理由は、ナハツェーラー自身
にすら分からないことだ。
 いずれにしろ、追手を出すことすらなかった。彼が己の元に来ないように祈
り続けてきた、カーミラを討たれて逃げた時も、イノヴェルチを創り上げた後
からも。

 しかし祈りは通じず、ついにその刻が来た。

 ナハツェーラーに声をかけた男はDと呼ばれる、吸血鬼ハンターDだ。彼の
後ろに居るのは、かつてイノヴェルチの日本支部を壊滅に追いこんだ伊藤惣太
であったが、今の彼にはどうでもよかった。それよりDが、彼が問題だった。
 Dの放った言葉が問題だった。
「D――」
「久しいな、ナハツェーラー」
 素っ気無い、旧知だが友人ではない知り合いに出会った時の声に似ていた。
 ナハツェーラーは苛立ちを募らせて、怒鳴った。
「D……貴様、何を知っている!? カーミラ様のことを、何を知っている!」
 Dが馬から降り、惣太が後に続いた。Dの落ち着き払った表情とは裏腹に、
惣太は不安げな表情を隠そうともせず、ナハツェーラーは恐れよりも疑惑と怒
り――疑惑が晴れないことへの怒り――の方が先行しているようだった。
 Dが進み出る。
 馬は、道路の脇にそろそろと逃げた。惣太は二人から目を離すことができず、
呆と突っ立っているだけだ。リァノーンの元に急ぎたいが、何故かこの二人の
会話は絶対に耳に入れておくべきだ、と惣太の直感が判断していた。
「カーミラは死んではいない。いや、死んでいたとしても、貴様が開けた死世
の門、その向こう側の世界には存在しない」
 Dが天に浮かぶ巨大な門を指差した。だが、彼の説明はナハツェーラーを余
計に混乱させた。
「何だそれは。一体、一体どういう――」
 Dが続けて左手をナハツェーラーに突き出した。掌に人面疽――らしきもの
――が一瞬現れてナハツェーラーに微笑みかけ、彼が驚く暇もなくただの少々
膨れた瘤に戻った。
「この左手は別の次元と通じている。おれはカーミラを仕留めた訳ではない、
この左手の次元に放り込んだだけだ」
 ナハツェーラーの口が、だらしなく弛緩した。
「な……ん………………だ………………と?」
 切れ切れに。
 疑問の声を発した。
「言葉通りだ。カーミラは死んではいない、だがこの世界に辿り着ける訳でも
ない。生きているのだから、死世の世界に居る訳でもなく、生きているのだか
ら、貴様の儀式で蘇ることもない」
 理解した。唐突に、ナハツェーラーはDが真実を述べていると理解した。彼
は紛れもない敵であるが、敵であるが故にこんな嘘を話しても何のメリットも
存在しない。
 となると、Dは真実を述べていることになる。だが、彼の理路整然とした理
屈にも、当然のことながら穴が存在する。ナハツェーラーにしか分からない穴
が存在する。
 ナハツェーラーは小馬鹿にするように笑った。Dがそれを観て顔をわずかに
曇らせた。
「出鱈目を言うな、D。私は、確かに声を聞いたのだぞ。声を聞いたのだ。違
う次元、違う世界にカーミラ様が在るというのならば、私が聞いた声は――」
「それは貴様だ」
 遮ったDの答えは、ナハツェーラーには到底許容し難いものだった。惣太も、
Dとナハツェーラーの因縁を聞いていた彼ですら、今の答えには眉をひそめた。
 だが、ナハツェーラーはしばらく額に手を抑えて考え込み、ようやく思い至
ったようだった。
「! まさか、まさか、まさか、私は――」
「吸血鬼にはよくあることだろう、人格分裂は」
 ナハツェーラーは愕然として、Dの顔を視た。彼は恐らく嘘を、……否、間
違いなく嘘を言っているつもりはない。ナハツェーラーは両膝を地面に突き、
呆けた老人のような表情を見せた、それは恐らく今まで誰にも見せたことのな
いであろう、あまりにも弱々しい顔だ。

 ナハツェーラーの脳裏に、今までの光景がフラッシュバックする。一人でチ
ェスを打つ己の姿、一人で会話をし続ける己の姿、脳内に響き渡る冷然とした
声。幻、夢見た彼女の姿、幻、全ては幻、延々と続く屍の群れ、死世への門、
邪な神の復活、幻、幻、何もかもが――幻!

 一般的な吸血鬼――いわゆる死徒と呼ばれる者は打ち滅ぼされず、血を啜り
続けることができたならば、際限なく生き続けることができる。十年、百年、
一千年の刻を生きる吸血鬼もいる。
 だが、元人間であった彼等の精神は如何に変容しようともあまりにも長い刻
を生き続けることができてはいない。だからこそ、吸血鬼は数十年、数百年と
いった単位で眠るのだ。
 それでも、永遠の生というものは想像を遥かに越える辛さが存在する。そし
て、そのせいで精神を病んでしまう吸血鬼もいる。鬱病になる者、分裂症にか
かるもの、それは様々だ。
 そしてその中でも、比較的多いものが多重人格症――即ち、永遠から逃れよ
うとして、別の精神を形作ってしまう。そしてその彼、もしくは彼女に永遠の
生を引き継いでもらおうとするのだ。もちろん、大抵それは上手くいかない。
 精妙に創り上げられたそれは、完全に別の人格と変容し、自分ばかりが永遠
を生きるのは不公平ではないか、とばかりに自分を創り上げた人格と強引に肉
体の所有権を交代させようとする。結果、その時々によってころころと人格が
移り変わるどうしようもない吸血鬼が一体生まれることになる。
 だが、ナハツェーラーの場合一つ違っていたのは、創り上げた人格がオリジ
ナルではなく、カーミラというかつて存在した吸血鬼の性格を受け継いでいた
ことと、それによってカーミラの下にナハツェーラーが存在するという位置付
けが決まり、擬似だったはずの人格が、完璧なまでに本人格を凌駕してしまっ
ていたことだ。
 だからナハツェーラーは、今の今まで指示を送ってきた“内なる声”という
ものが、実は己の内なる声の一つだった、ということに今まで気付いていなか
った。恐らく気付いてしまったとしてもすぐさまカーミラの人格が忘れさせよ
うとするだろうが。
 Dが、言葉を紡ぐ。
「貴様が創り出した人格は、皮肉なことに貴様が目的を達成しようとすれば、
するほど己の人格を問われることになった」
 分かる。
 ナハツェーラーはそう思った。今なら分かる、今なら己が作り出したカーミ
ラが如何な気持ちで自分の行動を見つめていたかよく分かった。それは絶え間
ない歓喜と絶望だ。産み出された人格は、本物と同じように思考せねばならな
い、しかし一方でそれはいつか決定的な破局――己がただの擬似人格だという
こと――を曝け出してしまう。カーミラの人格はその二律背反に苦しみ、命令
することも忘れていつしかナハツェーラーの意識に介入することも忘れ、絶望
に没していったのだ。

 くく。
 くぐもった笑い声が伽藍とした通りに響く。
 ナハツェーラーはいつしか笑い出していた。そのあまりにも皮肉な事実に。
「そうか、そうだったか――私は、虚しく幻想を掴もうとしていた訳か……。
 ハハハハハ! 滑稽だ、滑稽すぎるぞ! こんなもの……喜劇だ! 悲劇で
すらない! 己が全てを棄てて掴もうとしていた、ささやかな望みがただの…
…ただの、幻想だったと!?」
 けたたましい、狂ったかと思うほどの笑い声は次第に力を失っていき、最後
には自嘲的な、自虐的なものへと移り変わっていった。今の彼は泣く気力すら
失っているようだった。
 Dが一歩近付いた。右手がゆるりと背中の刀の鞘にかかった。ナハツェーラ
ーは顔を伏せたまま、Dの歩みを腕を一本突き出すことで押し止めた。
 ナハツェーラーは言う。
「必要ないさ、D。もう私はどうでもいい、貴様を止める力など今の私に存在
しない、好きにするがいい、この道を通り、ヴァチカンに向かい、神を止めて
みるのもいい……できるものならな」
 Dが踏み込むより先に、惣太がつかつかと歩み寄ってナハツェーラーの襟首
を引っ掴み、憤怒の形相で思い切り殴りつけた。
 本気で殴りつけられたナハツェーラーの躰は雑貨屋のショーウィンドウに勢
い良く叩きつけられる。
「何だ……何だよ、何だ、その態度は! お前、世界を、このローマを滅茶苦
茶にして、何様のつもりだ!」
 惣太は激昂してそう叫んだ。
 ナハツェーラーは切った唇から出る血を袖で拭い、よろよろと立ち上がった。
「言ったろう? 私はどうでもいいのだ、あの方が蘇らないと解った以上、私
は私が死のうが生きようが他の誰が死のうが生きようがもうどうでもいい。
 貴様とて同じことだろう、リァノーンの継嗣よ。人で在った生活を棄てて彼
女と共にいることを選んだ貴様に、私を責める資格はない!」
 惣太は言葉に詰まり、少し驚いたようにナハツェーラーを見た。今の台詞を
素直に解釈するならば、
「ナハツェーラー、お前、カーミラって吸血鬼が――?」
 ナハツェーラーは苦笑を浮かべることで、その疑問に応じた。
「分からん……分からんよ、果たしてあれが愛と呼べるものなのかどうか、私
には――」
 ナハツェーラーは空を見上げた。黒色の空は相変わらず残酷なまでの静謐を
もって彼を出迎える。ふと、ナハツェーラーは背中に気配を感じた。馴染み深
い気配、馴染み深い殺意だった。
 ――ああ、戻ってきたか。
 彼の出現は、単純に嬉しいと感じた。
「……さて、リァノーンが継嗣よ、そしてDよ。私は先に行かせてもらおう。
 生きるにもそろそろ飽いていたことだ」
 ナハツェーラーの背後に、突如黒い影が現れた。Dの傍らにいた惣太は全く
気付いていなかったようで、驚きのあまり口が半開きになった。もちろん突然
出現した、ということに驚いたということもあるが、それ以上にその姿に驚愕
した。なぜならばナハツェーラーの背後に立っているのは、この世界に絶対に
居ないはずの男だったから。
 Dの表情は凍りついたように変わらない。背後に立った男をつい、と眺めた
だけだ。
「蘇ったか、古き友よ」
 ナハツェーラーは振り返りもせずに言った。その淡々とした物言いには恐怖
心の欠片も見当たらない。ナハツェーラーは両手を広げ、天に向けて差し出し
た。


「一撃で仕留めてくれよ?」
「応」


 ヒルドルヴ・フォークはナハツェーラーの背中から心臓を一刀の元に貫いた。
 ほとんど間髪入れずに、彼の躰は全てが灰燼と化す。こうして、呆気ないほ
ど迅速に、此度の戦争の仕掛け人であるナハツェーラーはこの世から消し飛ん
だ。
「何……いや、そんな、ま……さか! まさか!?」
 惣太が口を抑えて、よろよろと二、三歩後退した。そこにいたのは、そこに
居るのは、間違いなく紅の騎士ギーラッハ、惣太と同じくリァノーンの継嗣で
あり、彼女の忠僕である吸血騎士だった。一つ、以前惣太が出会ったギーラッ
ハと決定的に違う点があるとするならば、真紅だった鎧が天の色と同じような
漆黒に変わり果てている点だろうか。
 何処か――禍々しいものを感じさせた。
「久しいな、伊藤惣太」
「ギーラッハ……本当に、ギーラッハなのか!?」
「死世の門が開いた時に、我の魂もこちらに抜け出た。確かに己の名はギーラ
ッハ――生き恥を晒して舞い戻った」
 惣太は一瞬喜んでいいのかどうか迷ったが――とりあえず、ナハツェーラー
を殺した以上、彼等の味方という訳ではないと判断し、加えて今の事態を鑑み
ると、彼が敵になるはずがないと考えた。
「ギーラッハ。リァノーンが――」
「我が姫なら、ヴァチカンに居る。――まだ、生きている」
 ほんのわずか、表情を曇らせてギーラッハは惣太にそう告げた。惣太はその
報せに驚愕し、次にギーラッハの顔を見て、不審そうに眉をひそめた。
「どうして――知ってるんだ?」
「見たからだ」
「おい、ギーラッハ! なら、どうして――」
 リァノーンを救おうとしなかった、と惣太は言いかけてDの左腕に全ての言
葉を遮られた。ギーラッハは苦笑した、どうやら己の狙いをこの吸血鬼ハンタ
ーは既に看破してしまったようだ。
 Dが言った。
「退がれ」
 もちろん、それで引き下がるような伊藤惣太ではない。
「ちょっと待て、どういう――」
「伊藤惣太、我はまだ姫の元には行けぬ。その前に為すべきことがある」
 ほんのわずか、悔恨を滲ませるようにギーラッハは言った。惣太は怒り心頭
という様子で、ギーラッハに向かって怒鳴る。
「ふざけんなッ! リァノーンを、彼女を助ける以外にどんな為すべきことと
やらがあるってんだッ!!」
 ……ギーラッハはもちろんその言葉に気圧されたわけではないが、結果的に
はそうなったかのように、二人から少し距離を取った。それから、彼は己がも
っとも信用している大剣、ヒルドルヴ・フォークを上段に構えた。
 惣太が、その構えを見てぎょっとした。
「な、何をやって――」
「これが、為すべきことだ。伊藤惣太よ。俺は、この男、Dと――闘いたい」
 Dはそれに応じるかのように――実際、完全に応じていた――腰を若干低く
落として背中の刀に手をかける。

 ただ一人、惣太だけが二人の間に割って入るようにして、ギーラッハに問う。
「何で……何でだよ! こんな事、してる暇――」
「惣太」
 ギーラッハが彼に声をかける、惣太は尚も何か言いたげだったが彼の眼差し
に気圧されて、素直に口を閉じることにした。
「己がこの現世に舞い戻ってきた理由は、たった一つだけ遣り残したことが在
ったからだ、在ったことを思い出したからなのだ」
 惣太は、瞬きもせずに彼を見つめていた。違う、と彼は思った。惣太が日本
で出会ったギーラッハとは、何かが決定的に違うと。そう、リァノーンが窮地
に陥っているにも関わらず、ギーラッハは助けに行こうとはしない。普段の彼
なら間違いなく、全てを投げ打ってそれを優先するだろうに。
「遣り残した……こと?」
 童子のように、惣太はギーラッハの言葉を聞き返した。
「ああ」
 D、ギーラッハ。双方共に構えを解こうとはしない、それどころか空気がど
んどん目に見えない何かに張り詰めていくのが惣太にも分かる。
 ごくり、と唾を呑んだ。
「それは己の為の闘いだ。姫のためではなく、騎士として闘うのではなく、た
だの武人として、ただ闘いたい。純粋に、闘うために闘いたい――!」
 張り詰めた空気を叩きつけて吹き飛ばすように、ギーラッハが咆哮した。
 だが、Dはその咆哮に微塵も動揺しない。それどころか、ますますその冷徹
な雰囲気を高めていく。吹き飛んだ空気が舞い戻るように凍りつく。
 惣太もそのプレッシャーは感じている。が、それでも尚口を開かざるを得な
い。
「だけど――だけど、今はそんな刻じゃ――」
「では、我の刻は何時訪れると言うのだ!?」
 激昂したかのようなギーラッハの言葉。しかし、視線はしっかりとDを見据
えて放さない。Dもピクリとも動かなかった。
「案ずるな惣太。この闘い、もし俺が勝てば、すぐに貴様と一緒に姫を助け出
す……だが、その前にこの闘いだけは、俺に遂げさせてくれ……頼む!」
 惣太は、その「頼む」という言葉に凄まじい重みを感じた。あのギーラッハ
が血を吐くようにして、そう言ったのだ。
 ため息。
 二歩、三歩とDとギーラッハの間から後退する。最早、Dとギーラッハの空
間を遮るものは全く存在しない。
 Dが――静かに惣太に言った。
「安心しろ」
 惣太がその言葉に首を捻る前に、Dはすぐに言葉を紡いだ。
「どちらが勝つにせよ、一瞬で終わる」
 彼がそう言った瞬間――。


 Dが疾り、
 ギーラッハがもう一度咆哮し、
 Dが躰を捻り、
 ギーラッハが躰を捻り、
 Dが刀を抜き、
 ギーラッハがヒルドルヴ・フォークを振り下ろす、


 終わった。


 結論から先に述べる。
 ギーラッハがヒルドルヴ・フォークを振り下ろすよりほんのわずか疾く、D
の刀がギーラッハの躰を両断した。にも関わらず、Dは勝利を受け入れている
のか定かではないほど無表情で、ギーラッハの顔は満足気に微笑んでいた。
「疾かった」
 とDが言った。
「だが、貴殿の方が疾かった……………………見事」
 ギーラッハがDの台詞に応じた。Dは静かに後ろへ退がった。ギーラッハは
ゆっくりと、闇空を仰ぎみるかのように倒れ込んだ。同時に惣太が駆け寄る。
「ギーラッハ!」
 呼び掛ける、ギーラッハは惣太を見て軽く首を横に振った。ギーラッハは―
―何処か吹っ切れたような顔で笑っている。惣太は片膝を突き、傷口にそっと
手を触れて歯をぎり、と食い縛った。致命傷――だろう、心臓を凄まじい速度
と威力の斬撃で切断されているのだ、灰にならないのが奇跡とでも言うべき状
態だった。恐らく一歩、一歩だけ歩いただけで間違いなくギーラッハは逝くだ
ろう。
 ギーラッハが己が右手を惣太に向かって突き出した。惣太は突き出された右
手に戸惑うが、頷いて握り返す。
「すまぬ」
「いや……いいさ、何となく、俺、アンタの気持ちが分かった気がする」
 分かった、つもりだ。闘いたい、殺したい、そういう欲望は間違いなく伊藤
惣太の中にだって存在するのだから。それに従ったとしても、伊藤惣太はギー
ラッハを責める気にはなれなかった。
「不才の身でありながら、更に頼み事をするのは気が引けるのだが。
 ――己のこの剣を、持って行ってくれぬか?」
 惣太はギーラッハの横に在る大剣、地面に垂直に突き刺さったヒルドルヴ・
フォークを見た。
「これを……か?」
 果たして自分はこの莫迦みたいに大きい兇器を持てるのだろうか、一瞬、日
本に居た頃読んでいた漫画の「それは正に鉄塊だった」という一節を思い出し
た、ああ、これこそ正に鉄塊だ。
「俺は貴様との約束を果たすことはできそうにない、だから代わりに持って行
ってくれ。……それから、この通りを真っ直ぐ行ったところに、楽士が乗り回
していた鉄騎馬が転がっていたぞ、まだ使えるかもしれん」
「鉄騎馬? ……! ああ、そうか! デスモドゥスか!」
「頼む、剣を――」
 惣太は微笑んだ、それが肯定の証だ。ギーラッハは感謝する、と呟いた。
 ギーラッハは、そっと彼の足下に立ったDを見た。
「……貴殿の剣業、感服した」
 Dのぼそぼそとした賞賛の言葉に、ギーラッハは満足気に頷いた。既に躰の
崩壊は始まっている。ゆっくりとギーラッハは足先の感覚が鈍っていくのを感
じていた。いや、鈍いというよりは感覚そのものが存在しない。
 観れば分かっただろうが、両脚は既に塵と変わっていた。
 だが、死の恐怖は微塵もなかった。
 ただほんの少しの寂しさと、高揚感があった。
「俺は……幸せ者だ……騎士として死ぬことができ……………………武人とし
ても……死ねる………………。二度も名誉ある死を…………」
 ギーラッハは強く手を握り返した。真摯な瞳が惣太を射抜く。そこに居たの
は、やはり夜魔の森の女王に数百年仕えた敬虔なる聖騎士(パラディン)だ。
 惣太は言う。
「言わなくても分かってるさ。リァノーンは、絶対に死なせやしない」
 だが、驚いたことにギーラッハは首を横に振った。
 訝しげな惣太に、ギーラッハは言う。
「それだけでは足らん。惣太、貴様も絶対に生き残れ。姫様の……あの、姫様
のまた哀しい顔を…………哀しい想いを…………繰り返させてはならん………
…だからお前も……生き残れ! 必ず……必ずだ!」
 ああそうか、と惣太は焦るあまり大切なことを忘れていた。リァノーンを助
けるとする決意はいい、だが、それで自分が無責任に命を失えばリァノーンは
またもや彼の幻影を求めてさ迷う無限の放浪者となってしまうのだ。
 それはある意味で、死ぬ以上に絶望的なことなのかもしれなかった。その彼
女の苦悶を知るギーラッハには、それが耐えられないのだろう。
「分かった、俺も生き残って、リァノーンも生き残る。
 大丈夫さ……俺は昔から、運がいいから」
 ギーラッハは、頷いた。既に下半身、腹部に至るまで灰燼と化しており、今
残されているのは惣太が握り締めている右腕と胸部から上だけだ。
 ギーラッハが大きく息を吸い込み、叫んだ。
「感謝する! さらばだ、我が宿敵にして誠実なる友よ!」
 瞬間、それまで耐え切っていたギーラッハの中の何かが一気に空に放出され
た、一瞬にして惣太が握り締めていたはずの右腕、それから胸部、首、顔に至
るまでギーラッハの全てが灰になった。
 剣呑な風が、ギーラッハの灰を道路に押し流す。惣太の手に残ったのは一掴
みの灰だけだ。惣太は立ち上がったが、Dから顔を背けた。
「あんたに感謝しなくちゃならないのは、よく分かってる」
 そう言いながら、突き立てられたヒルドルヴ・フォークを引き抜いた。ずっ
しりと重い。剣本来の重みと、それからこの大剣を振るいて数多のリァノーン
の敵を打ち滅ぼしてきたギーラッハの心が、ひたすらに重かった。
 惣太は剣の柄を逆手に持ち、動こうとしないDに背中を向けた。
「だけど、どうしてだか俺はあんたが憎くて仕方ないんだ」
 Dは――惣太には見えないと知りつつも、頷いて言った。
「そうだろうな」
 すまない、と惣太は言い残してDの元から去って行った。Dは道路に残った
灰を手が汚れるのも構わず(左手に巣食っているあれは文句を言い通しだった
が)、集めて牛革袋に詰め込んだ。
「そんなもの、どうするつもりじゃ?」
「遺灰だ」
 左手の問いに素っ気無く答えると、Dはベルトに革袋をくくりつけて、おず
おずと近寄ってきた馬に飛び乗った。
 左手が感慨深げに呟いた。
「ふむ、それにしてもあの人形使いめ。カーミラを裏切ったのは自分だという
肝心なことも覚えておらんようじゃったな」
「……それがカーミラという人格が産み出された原因でもあるのだろう」
 敬愛していた、けれど恐怖していたから――だから、裏切った。カーミラの
存在に耐えられなかった、けれどカーミラは必要だった。
 矛盾、余りにも大いなる矛盾だった。
 結果的にDはナハツェーラーの願いを叶えたと同時に、彼の精神に負い目を
作り、「裏切った」という事実を記憶から消すためにカーミラが産まれた。
 Dは目を瞑り、あの時の回想に耽る。
 こちらの居所を察知して、逃げ回るカーミラ。そして彼女を愛しながら同時
に恐れた小心者の吸血鬼、居場所を売り渡し、Dが訪れる直前に逃亡したあの
吸血鬼。あそこで仕留めなかったことをDはほんの少し悔やんだ。そうすれば
この極大悲劇は避けられたかもしれない。
 だが、それは無意味な仮定だ。現実という空間に「もしも」という単語は存
在しない。意味の無い行動は、今のところ慎んでおこう。
 回想を断ち切る。
 目を開くと、左手がにんまりと、さも愉快そうに笑っていた。
「ほうれ、何をしておる。急げ! 急げ! 急がねば、神が復活しちまうぞ!」
 言われるまでもない、とばかりにDは手綱を両手で目一杯握り締めて、馬を
走らせ始めた。














                         to the last episode!






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