人生には、全てをなくしても、それに値するような何かがあ
るんじゃないだろうか。
                     「風とライオン」















 マクマナス兄弟は、ヴァチカンの留守を預かったヴァチカナンガーズの数少
ない生存者だった。彼等二人は疲れるという概念そのものを忘却したように、
生存者をかき集め、あちらこちらでゲリラ戦を行っていた。
 そして今、彼等二人は空飛ぶ悪魔達を相手に、激闘を繰り広げていた。

「我等は聖人なり!」
 ごろごろと転がりながらスティンガーを掴み、誘導装置をオフにしてから発
射した。残念ながら直進するしか能のないミサイルは避けられて明後日の方向
に飛んで行く。
「くそ!」
「次だ!」
 舌打ちしたマクマナス兄――コナー・マクナマスに、弟であるマーフィが次
のスティンガーを拾い上げて手渡す。ぐおん、という翼音。二人は躰を伏せ、
それから、マーフィが二丁のベレッタで反撃した。弾丸が一発だけ、翼を掠め
たが、いくら銀の弾丸といえども掠ったくらいでは致命傷に成り得るはずもな
い。
 だが、掠った際の痛みでわずかに翼持つ吸血鬼――タイプバット、タイプイ
ーグルといったキメラヴァンプの群れ――の動きが鈍った。
「我が手で審判を――Amen!」
 スティンガーミサイルが、キメラヴァンプの腹部を直撃した。突き刺さった
ミサイルはすぐに爆発し、再生不可能レベルに爆裂四散。ようやく、とコナー
は思った。
 そう、彼等は一時間以上の激闘の末、ようやくたった一匹のキメラヴァンプ
を仕留めることができたのだ。
「くそ、あと何体いやがるんだっけか、兄貴」
「ああ……八、少なくとも六体はいるか?」
「スティンガーは?」
「今ので品切れ。他は壊されたか、ミサイルがない」
 六体。それはどう考えても絶望的な数字だ、その上今の彼等には肝心の対空
兵器が存在しない。そして、空にいるキメラヴァンプはまるで飛行機の連隊の
ように互いに念話を共有していた。つまり、一体が墜とされたという知らせは
各方面に散らばっていたキメラヴァンプ空挺部隊の生き残りに直ちに伝わった
ことになる。
 そして、勿論――あの、紅の男爵にも。

「来たぜ」
「応」
 空を見れば、六体のキメラヴァンプ。手に手にマシンガンだの、サブマシン
ガンだの、グレネードランチャーだの大盤振る舞いだ。
 二人は顔を見合わせた。揃いの黒のピーコート、黒の手袋、だが武器はたっ
た四丁の黒い拳銃。
 笑う。
 何故だか無性に可笑しい、これから死ぬかもしれない、いや、間違いなく死
ぬであろうと言うのに。
 神の為に無数の人と吸血鬼を殺した、天国には行けまい。もちろん行きたく
もない、地獄で亡者どもと殺し合う方が悪くはない。そうか、死んでも死なな
くてもどちらでもいいのか、俺達は。
「行こうぜ、兄貴」
「ああ、行こうぜ。我が弟」
 二人は空に向けて二丁の拳銃を突きつけ、声を揃える。
「人の血を流した者は
 男により報いを受ける
 その男とは神に許された者なり
 悪なる者を滅ぼし
 善なる者を栄えさせよ
 汝を我が羊として数え
 全ての天使の加護を与えん」
 一体のキメラヴァンプが様子を見るように襲いかかってきた。
 二人はベレッタM92FSの引金を引き捲くった。キメラヴァンプは二人の
決意を嘲笑うかのように急上昇、9mmの弾丸などまるで意味をなさない。
「くそ!」
 弾丸が切れた、再装填――返礼のようにキメラヴァンプが急下降しながら、
AK−74を連射した。慌てて二人とも転がって躱す。
 ああ、ちくしょう。死ぬことは恐くない、恐くないが――。
「くそ! あの化物どもめ!」
 あのクソ忌々しい化物どもに、一撃も加えることなく死ぬのは、たまらなく
恐い――というより、たまらなく怒りを感じた。
 既に油断し切ったキメラヴァンプは残りの仲間に「いただくぜ」と伝えて、
地面に降り立った。実に甲高い声でキリキリと笑う。
「くそ……全くくそったれだ」
 兄であるコナーは頭を抱えた。マーフィがその様子を見て、肩に手を掛ける。
「まだ――」
 敗北した訳ではない、と言おうとしてコナーの伏せた顔がかすかに笑ってい
るのを視た。


「全くくそったれだぜ。これでアイツに助けられるのは何度目だと思ってんだ」


 キメラヴァンプの背中から腹にかけて黒鍵が五本、いずれも爆裂。
「少しはありがとう、とかそういう言葉をかける気がないのですか貴方達は」
「ああ、ありがとう、ありがとう! くそ、これでまた変なことをやらされる
んだ、きっと」
「シエル!」
 兄がぶつくさいう傍らで、弟の顔は喜びに満ちた。
「図太く生き残ったみたいですね、何よりです」
 シエルが灰になったキメラヴァンプから黒鍵を引き抜いた。
「蝙蝠はあと何体?」
「五体。だが、百四体と言ってもいいかもな」
「……百?」
 キメラヴァンプは上空で待機していた、だがよく耳を澄ますとキィキィと騒
いでいるのが分かる、どうやら油断しきっていたこのキメラヴァンプが見事に
打ち倒されたことを感じたらしい。
「一体で百体分の化物がいるんだよ!」
 兄が空を指差した。それに呼応するかのように、残りのキメラヴァンプ四体
が襲いかかり――だが、遅れたにも関わらず、真っ先にこちらに向かって突撃
してきたのは、紅色の化物だった。
「……リ、リヒトホーフェンッ!」
 慌ててシエルと、その後ろからくっついてきていたダークマンとキャル、そ
してマクマナス兄弟は手近な建物――喫茶店に逃げ込んだ。一瞬遅れて、彼等
が居た場所に、ガトリングガンの弾丸の嵐が吹き荒れた。


                ***


「彼は今、吸血鬼になっている……えーっと、ミスター・ダークマン」
 思わず兄弟は後ずさった。吸血鬼になっている、という状態もさることなが
ら、よく見ると――よく見ないでも――この風体は異常すぎた。いくら慌てて
いたとは言え、この包帯男のことを見逃していたとは大変に不覚だ。
「兄貴、おい、兄貴」
「なんだよ」
「あれ……殺していいのかな」
「駄目」
 シエルが代理で返答した。というか、ひそひそと話をしているつもりらしい
が、当然ダークマンには丸聞こえだ。もっとも彼はそんなことをいちいち気に
するような性質の男ではなかったが。
「で、こちらが――」
 二人の表情が一変した。恐怖から喜びへ。二人共に握手を求める。キャルは
何とも言えない胡散臭げな表情でそれに応じる。
 シエルは少しムカついた。こいつ等私にはちっとも興味を持たないくせに、
そんなに金髪がいいのか。助けてやったのに、全く――!
「キャルさんです。……で! この馬鹿二人がマクマナス兄弟です」
 そう言いながらシエルは二人の足を連続で踏んづけた。ブーツ越しとはいえ、
本気で踏んづけられたので兄弟は痛みに苦悶した。
「……コホン。では、現状を整理しましょうか」
 シエルが咳払いして、呼びかけたのとほとんど同時に、窓ガラスからグレネ
ードが突っ込んできた。
「……」
「……」
 わずかな気まずい沈黙。
「全員――避けろッ!」
 ダークマンは言うなり、キャルを抱えてカウンターの影に隠れた。マクマナ
ス兄弟もソファーの影に、シエルは咄嗟に第七聖典の影に隠れた。一瞬、彼女
の脳内にセブンの悲鳴が聞こえたような気もするが、とりあえず黙殺する。
 爆発。
 それからまた沈黙。
 シエルは第七聖典が煤で薄汚れたのと、わずかに吹っ飛んで背中から叩きつ
けられた程度で済んだ。ちなみに他の人間と、それから吸血鬼は無傷だったが。
「……という訳で、このままここでもたついていては始まりません。
 そうかと言って――」
 シエルがそろりと第七聖典を窓から突き出した。瞬間、雨霰と弾丸が降り注
ぐ。すぐに第七聖典を引っ込めたが、あちこちに傷ができていた。もちろんシ
エルは気にしない。
「この有様です。向こうは空飛んでて、こっちは地上をべたべた歩き回る以上、
出る、即、死は間違いないと思われます」
「裏口から出るって言うのはどうだ?」
 マーフィの提案をキャルが却下した。
「駄目駄目! 今、裏口見てきたけど狭苦しい一本道みたい。あんなところ、
機銃掃射されたら即死だね」
 マーフィが肩を落とす。コナーが「気を落とすな」と肩を叩いて慰めた。
「上の階に昇って、迎撃ってのは?」
 キャルが天井を指差して提案する。ダークマンが「少し待っていろ」と言い
ながら、階段を使って二階を確認しに向かう。三分もしない内に、ダークマン
は戻って首を横に振った。
「駄目だな、ここに逃げ込む時は確認する暇がなかったので分からなかったが
どうやら二階、三階共に改装中のようで、バリケードになりそうなものがほと
んど存在しない。まあ、鉄骨が転がっているくらいだからそれを使えば何とか
なるかもしれんが、あまりお勧めできんな」
 キャルは腕を組んで唸る。
 マーフィとコナーが同時に手を挙げた。
「はい、マーフィとコナー君」
 まるで先生と生徒のように、シエルが二人を当てた。
 二人は一斉に、同じ提案を同じ口調で喋る。
「不死身のシエルが頑張って全員を」
「却下却下却下! 何度も何度も耳にタコが出来るくらい言ってやりますけど、
私だってもう不死身じゃないんですからね!
 大体なんですかその作戦は。いくら私でも黒鍵や第七聖典が届かない場所に
いる吸血鬼をどうやって仕留めろって言うんですか、えぇ!?」
 怯えるマクマナス兄弟の首根っこを掴んでシエルは喚いた。キャルがまあま
あ、と押し止める。剣呑な空気が彼等を取り囲む。
 ふと、キャルが気付いた。
「あれ? ダークマンのやつ、どこ行った?」
 その声に三人も周りを見渡す。先ほどまでいたはずのダークマンの姿は正に
闇に掻き消すようにいなくなってしまっていた。
「おい、まさか一人で逃げたんじゃ――」
「逃げられないってさっき言ったでしょうが」
「第一逃げるような奴じゃねぇさ」
 マーフィの言葉をシエルが氷の視線で、キャルが怒りの篭った焔の視線で睨
み付けた、たちまち彼は萎縮する。今度ばかりは兄は助けを出そうとは思わな
かった。
「ここだ」
 ダークマンの声が下から聞こえた。カウンターの裏側から、ひょっこりと顔
を出す。思わずコナーは叫びそうになった。
「何やってたんです?」
「地下室を見つけてな」
 シエルの問いにダークマンは黒いコートの埃を手で掃いながら答える。
「ふうん……地下室が――で、何かありました?」
「隠し地下通路とか、なかった?」
 少々わくわくしながら聞くキャルの問いを、
「そんなもの、ある訳なかろう」
 ダークマンは一刀両断した。キャルは残念そうな顔をして、舌打ちする。こ
んな時にも、豊かな想像力は失われていないらしい、結構なことだ――と、ダ
ークマンは思った。
「だが、面白いものを見つけたぞ」
 埃を掃いながら、ダークマンは地下室からの掘り出し物を手で叩いた。四人
が一斉にそれを覗き込む。それは緑色をした、円柱形の物体。いわゆるドラム
缶だった。
「これが……面白いものですか?」
 シエルが試しに右側部を平手で叩いた。ばん、という音とわずかに液体が撥
ねる音、どうやら中身はたっぷり入っているらしい。
「ディーゼル燃料だ、こういうのがまだ他に三缶ほどあった。
 これがあるなら、いい作戦がある」
 ダークマンが自信たっぷりに言った。
「はぁ……」
 曖昧に全員が頷く。
 燃料は分かった、だが問題は、その燃料をどうやって有効活用するかだ。こ
こには車もなければ、ディーゼルで走るような電車もない。
「君達、アーバレストを知っているかね?」
 ダークマンの問いかけに、四人は首を横に振った。ダークマンはニヤリと笑
って、本来は観賞用であろうランプに火をつけ、カウンターにナイフで図面を
描き出した。
 完成。
 全員がその無茶苦茶で出鱈目な図面をたっぷり三十秒は見つめただろうか。
「頭、痛い――」
 それがシエルの第一の感想だった、恐らく他の三人も似たりよったりの考え
だっただろう。それは中世の防城兵器を模したものだった、巨大なクロスボウ
をもっと巨大化し、矢を番える代わりにドラム缶を大空へ吹き飛ばす、そんな
無茶なシロモノ。
 問題は山ほどあった、まともに作ることができるのか、まともに飛ばすこと
ができるのか、まともに当てることができるのか、エトセトラエトセトラ。
「本来なら大仕事さ、材料も沢山必要だろうしこんな大きさともなると、人力
では限界がある。だが、私なら作れる。今の私なら素手で釘も打てるし、これ
の弦を引き絞ることもできる」
 ……これの、弦をか。
 さすがに三人は呆れた表情を浮かべた、が、シエルはこの中で誰よりも吸血
鬼を知っている、人間を紙屑のように引き裂く怪力を知っている。恐らく、こ
のクロスボウを使えば、ドラム缶を空の彼方まで吹き飛ばすことができるはず
だ。
 何となく、上手くいくように思われた。
 何とかなるかもしれない、と思うようになってきた。
 シエルはもう一度図面を見て、若干の補正を黒鍵でそれに加えてから、スプ
リングボウ作成に賛成した。
 こうなると、マクマナス兄弟も、そして残ったキャルとて従わない訳にはい
かない。ともあれ、こうしてアーバレストの作成が開始された。
 マクマナス兄弟が二人してえっちらおっちらと鉄骨を運ぶ横を、キャルが見
張る。この中で恐らく一番力が弱い部類に入る人間であるキャルは、物を運ぶ
よりも、外の見張りを行った方がマシだと判断されたのだ。
 まあ、キャルにしてみれば重たい物を持たずに済んで幸運だと思うべきだろ
う、とは言え危険なことに変わりはない。だが、どうも彼等はここに自分達を
釘付けにする作戦を選択したらしく、顔を外へ突き出さない限り、襲いかかり
はしてこないようだった。
 だからマクマナス兄弟も、キャルも窓の外へ出ない限り安全である。作業に
邪魔は入らない。だが――ダークマンとシエルはそうはいかない。
 なぜかポケットに突っ込んであったガムをしばらく噛んで、それを叩き割っ
たトイレの鏡と黒鍵の接着に使い(シエルはかなり嫌がった)、慎重に入り口
から突き出す。
 鏡に車が二台映っていた、鉄柱に突っ込んで大破したものと、無傷のまま捨
て去られているもの。大破しているのは4WDの日本車、無傷で残っているの
はどこのメーカーかすら窺い知れない安っぽい三輪車だった。日本車は側面か
ら突っ込んで大破しているが、車前面についているウィンチは無事だった。二
人は頷き合って、一斉に外へ飛び出した。
 あまりに素早かったので、空を飛ぶキメラヴァンプ達が二人に気付いたのは
ダークマンがウィンチを丸ごと素手で引き千切った際に響いた音だった。
「急いで!」
 シエルが黒鍵を空に投げつけた、上空から突っ込みながらライフルを乱射し
ていた何匹かのキメラヴァンプが怯む。彼等は一定の距離を保つと散発的な反
撃を行ったが、その頃には二人は建物に戻っていた。
 キメラヴァンプは互いに顔を見合わせ、自分達が膠着状態に陥っていること
を認め、解決策を考え始めた。ただ、その話し合いに一人、リヒトホーフェン
だけは加わらなかった、彼はそんなどうでもいいことに興味がなかったのだ。
 やがて、キメラヴァンプの意見は一致した。彼等が立て篭もっている建物ご
と吹き飛ばす。もちろん、手持ちの手榴弾やアサルトライフルだけではその願
いが叶えられるはずもないので、二匹のキメラヴァンプがそのための武器を手
に入れるために、その場を飛び立った。

 言うなればカタパルトを作るようなものだった。鉄骨で土台を作り、未完成
だった二階天井から、よく乾いた木材を引っ張り出してくる。通常なら数時間、
数日はかかるであろう大作業を、マクマナス兄弟やキャル、シエルですら疲労
困憊のあまり、ぶっ倒れそうになったのを横目に、ダークマンは疲れを知らな
いように――実際、今の彼は疲れを知らなかった――黙々と続けた。
 組み立ては最上階の、これまただだっ広いだけの空間で行われた。鉄骨と材
木が複雑に絡み、ウィンチの巻き上げによってワイヤーが強烈に引っ張られる。
 木材でできた弦がそれに合わせて反った。ディーゼル燃料の入ったドラム缶
に黒鍵で慎重に穴を開き、満タンだった燃料を三分の一ほど廃棄する、重量の
軽減もあるが爆発する際には満載した燃料より、空気と混じって燃焼を起こし
た方が遥かに巨大な爆発を呼び起こすのだ。
 五人はできあがった喜びを味わう暇もなく、三階で作り上げられた巨大アー
バレストを前にして悩んでいた。そう、三階は最上階だが、ドラム缶を窓から
打ち出せるほど広くはない。
 どうしても屋上に昇る必要があった、だが――もう一度バラして、組み立て
直すことが果たしてできるものか――キメラヴァンプが油断なく空の上から見
張っているというのに。
 五人はそれぞれ少し考えた末、ダークマンから一つの案が提出され、それが
全会一致で採用を見た。


                ***


 えっちらおっちらと二匹のキメラヴァンプが特大重量のプラスチック爆弾を
運んできた。アパートはおろか、近隣の区画ごとまとめて吹き飛ばせるほどの
量だ。後はタイマーをセットすれば、完璧だ。
 もう一匹のキメラヴァンプが爆弾に近付いて、タイマーをセットした。三匹
は頷き合い、そしてキシシと小賢しい笑いを浮かべ――。

 唐突に、アパート三階の横壁が綺麗に吹っ飛んだ。ダークマンがハンマーで、
シエルが黒鍵の火葬式典で壁を文字通り叩き壊したのである。
「!?」
 宙空であぐらをかきながら瞑想に耽っていたリヒトホーフェンも、その爆破
でさすがに瞼を開いて、その光景を見た。
 何やらとてつもなく不恰好で無骨で尚且つ巨大な――。
「弩……か?」
 リヒトホーフェンは眉を吊り上げる、同時に唇の端も吊り上った。素晴らし
い、たかだか数時間も経過してないというのに、あんなものを組み上げている
とは、まさに不屈の闘志というやつだ。
 リヒトホーフェンはこの瞬間、いずれは殺し合おうともくろんでいる数々の
人間、吸血殲鬼の中で彼等を最優先にすることにした。あぐらを解き、宙空で
立ち上がる。翼が小刻みに震えた。
 五匹のキメラヴァンプはより集まりながら互いに困惑し、顔を寄せ合って一
体何事が起きているのか話し合う。
 ――愚か者どもめ。
 やはりキメラヴァンプという連中は知能が幾分退化するらしい、あんなもの、
一目見て看破できるだろうに。
 既に“弾丸”もしくは“矢”は装填されている。包帯の男が手持ちのハンマ
ーを恐らくはトリガーと呼ばれる部分に叩きつけた。
 ワイヤーは勢い良く引き戻り、蓋から漏れた油に既に炎が立ち昇っているド
ラム缶を一気に押し出す。だが――。
「ケケケケケケケケケケキキカカカカカカッ!」
「キキーキキッ! キキキキキキキッ!」
 ドラム缶は明後日の方向に飛んだ。キメラヴァンプ達は腹を抱えて、笑い声
をあげる。ただ一人、リヒトホーフェンだけが感心していた。なぜなら、確か
にドラム缶は明後日の方向に飛んでしまっていたが、少なくとも距離的には申
し分なく、こちらまで届いていたからだ。
 今のは予行演習に過ぎない、彼等が台座の調節を始めた。次は間違いなく届
く。だのに、キメラヴァンプは騒いで笑っているだけで動こうとはしない。も
ちろんリヒトホーフェンは警告する気などさらさらない、愚者に何を言っても
愚者でしかなく、無駄な行為でしかないのだ。
 もう一度矢が放たれた。ドラム缶は放物線を描きながら真っ直ぐキメラヴァ
ンプの密集地に向かって行く。リヒトホーフェンはすぐにさらに上へ飛びあが
った。
「キッ!?」
 キメラヴァンプ達が気付いたときには、ドラム缶は間違いなく彼等を直撃す
るコースを描いていた。五匹は慌てて離れようとする。だが、二匹が互いに逆
の方向へ飛び立とうとすると、片手に掴んでいたプラスチック爆弾をお互いに
引っ張る形となり、彼等だけが逃げ遅れた。
 意図的ではなかっただろうが、ドラム缶はプラスチック爆弾を直撃する形と
なった。タイマーよりかなり速く、爆弾は恐ろしい轟音を立てて吹き飛んだ。
 両脇にいた二匹は欠片も残らず、逃げた三匹とて爆発の余波で地面に叩きつ
けられた。全身の骨は砕かれ、翼は引き裂かれ、叩きつけられたショックで脳
味噌がシェイクされ、筋肉や内臓器官もこっぴどく痛めつけられた。三匹とも
当分再起できそうにない。
 ――ふむ、ならば。後は私と彼等との勝負になる、となる訳だ。
 誰も見てないであろう大空で翼を広げて一人。
 血の男爵(ブラッドバロン)は惨く嬉しそうに笑った。


                ***


「やった……か!?」
「おい、やった、やったぞ、スゲぇ!」
 マクマナス兄弟が手を取り合って喜んだ、キャルも爆風に顔をしかめながら
もさすがに嬉しそうだ。ダークマンとシエルだけは油断なく空を見る。
「気付きました?」
「一匹、離れたな」
 シエルとダークマンの動体視力のみがソレを追うことができた、油断しきっ
たキメラヴァンプより、数秒以上早くその場から脱出した奴がいる。二人は、
その吸血鬼が誰であるか、ほぼ確信していた。
「――!」
「来るぞ!」
 慌ててダークマンは三人を引き摺るように、部屋の奥へ押しやった。シエル
が黒鍵を構える。やがて空の煙を突っ切るように、リヒトホーフェンが姿を現
した。まるで戦闘機のようなスタイルでリヒトホーフェンは滑空する、双翼の
ガトリングガンが甲高い叫び声をあげた。
 襲い来る弾丸をあえて無視して、シエルは黒鍵でリヒトホーフェンを迎撃し
た、だがリヒトホーフェンは空中できりもみ旋回を繰り返して、あっさりと撃
ち出される黒鍵を避けていく。弾丸が次第にシエルの躰を削って行く。
「シエル!」
 コナーが思わず叫んだ。だが、シエルは7.62mmの弾丸に怯むことなく、
黒鍵で迎撃し続ける。そして、リヒトホーフェンは少々近付きすぎたと判断し
て、急上昇を行った。
 一瞬の刻の空白、ダークマンが物も言わずシエルに駆け寄って、その躰を引
っ掴んで部屋の奥に引っ込む、彼女の躰はガトリングガンの弾丸でそこら中を
ズタズタにされていた。この様子では内臓器官も破損しているだろう。マーフ
ィが持っていた包帯を巻いて、とりあえず応急手当を施した。
 もちろん、シエルはこの程度では死なない。とは言え、ダメージは彼女が覚
悟していた以上に深刻のようだ――既に不死の躰ではない、ということを戦闘
に夢中で忘却していたのだろう。
「しばらく治療に専念しておけ」
「……っ……で、も――」
 シエルは尚も立ち上がろうとする。リヒトホーフェンを始末せねば、ここか
ら脱出する術は無い。
「名案がある」
 とダークマンは言って、ディーゼル燃料の入ったドラム缶の蓋を開いた。そ
れから暴動鎮圧用の催涙弾をその中に放り込む。
「もう一度やるぞ」
 そう言ってダークマンはドラム缶をセットした。宙返りをしながら態勢を整
えるリヒトホーフェンを見据える。明らかに距離が離れすぎているにも関わら
ず、ダークマンはトリガーを叩いた。
 リヒトホーフェンの遥か手前で、燃え盛るドラム缶はガトリングガンの掃射
によって爆発した。同時に中の催涙弾から煙が噴出する。慌ててリヒトホーフ
ェンは避けようとしたが、煙は思っていた以上に広がり、彼の目を曇らせた。
 ―――己ッ!
 リヒトホーフェンは迷わずそのまま突っ込むことを選んだ、一瞬で煙が晴れ
る、目の痛みは無視できないが、彼は目を瞑ってしまうことにした。目は必要
ない、真正面から来るであろう矢は撃ち落せばいい、後は破壊してしまえばい
い。
 ガトリングガンの絶叫はますます甲高くなった。

 巨大アーバレストから次のドラム缶が発射された。ドラム缶は真っ直ぐリヒ
トホーフェンへ向かって突き進む。


                ***


 目くらましは予想以上の効果を発揮した。では次弾を装填。ダークマンはド
ラム缶の蓋を開き、燃料を一気に窓の外から投げ捨てた。呆気に取られる四人
を尻目にダークマンは空のドラム缶を巨大アーバレストにセットする。
「ちょ、ちょっと待って。待ってってば、ダークマン! アンタ、何を――」
 ダークマンはキャルに顔を向けると、笑った。いつもの嗤いではなく、父親
が娘の様を見守るような、そんな儚い微笑を浮かべた。だが、すぐにその微笑
は掻き消え、代わりに面白い悪戯を思いついた少年のような表情を浮かべる。
「キャル、『ザ・ロック』って映画は見たことあるか?」
 唐突にそんな、どうでもいいことを聞いた。
「それが何――いや、見たけど。あの……ニコラス・ケイジとショーン・コネ
リーが出てるやつ」
 ダークマンは頷いた。
「じゃあ、クイズだ。ニコラス・ケイジが敵に向かって叫んだエルトン・ジョ
ンの曲名は?」
 それがどうした、と言いたくなるのをぐっと咽喉の奥で堪え、キャルは答え
を思い出そうとする。そう、あれは映画後半。突然主人公であるニコラス・ケ
イジが敵に向かってエルトン・ジョンの話題を――。
 タイトルは、タイトルは――。
 ぞわりと、とてつもない厭な予感がキャルの全身を走り抜けた。同時に、ダ
ークマンが何を考えているか、何をしようとしているのか、ただ一人、彼女だ
けが分かってしまった。
「答えは――“ロケット・マン”」
 言うなり、ドラム缶に飛び乗るとハンマーを投げ捨てるようにトリガーに叩
きつけた、キャルや、他の人間が止める間もなく弦は勢いよくドラム缶と、そ
の上に乗ったダークマンもろとも空へ吹き飛ばした。
 放物線を描きながら天高くドラム缶は飛ぶ。やがて頂点に達したと判断した
ダークマンはドラム缶を蹴った。無論、彼には翼がない、ただ落下するだけだ。
 しかし落下するその先には、紅の男爵がいた。そしてダークマンにはドラム
缶には存在しない、二本の腕があった。

 おかしい、とリヒトホーフェンは首を傾げた。あのクロスボウから発射音が
聞こえたのに、どうも矢は見当違いの方向へ飛んでしまっているようだ。
 こんな状況で失敗するとは何たる無様っぷり、リヒトホーフェンは好敵手に
なるはずであった彼等にいたく失望を受けた。
 ようやく煙を除去した眼球が開くようになり、視界がクリアになり始めた。
 
 突然、リヒトホーフェンは背中に衝撃を受けた。重たい、全身に何かが纏わ
りついている。リヒトホーフェンは滑空を止めて、空の上で暴れ回る。そして
腕を回し、ようやく何が自分の背中に張り付いているのか理解した。
「貴――様!?」
「初めまして、紅の男爵(レッドバロン)、さようなら、紅の男爵!」
 首に手を回す、ダークマンの口が開く。尖った牙が、首筋に突き立てられた。
 食い込んだ牙は頚動脈、というよりはほとんど首を千切らんばかりだった。
 苦痛にリヒトホーフェンは空中で悶え狂った。背中のダークマンに必死に両
腕で攻撃を加える、彼の頭を掴み、眼球を親指で潰した。だのに、ダークマン
の力は全く緩まない、それどころかさらに締め上げる力を強める。
 何故、とリヒトホーフェンは思う。
 吸血鬼となって数十年、力で遅れを取ったことなど数えるほどしかない。そ
れが、こんなか細い人間の躰しか持たない吸血鬼に、なぜ力負けするのだろう。
 なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで。
 首が圧迫され、酸素が供給されなくなった脳では物事を思考するのが困難に
なってくる。
 だが、締められていた首が突然解放された。ほとんど潰されかかっていた咽
喉がすぐに修復され、呼吸を思い出す。酸素が脳をクリアにする。なぜ唐突に
楽になったのか、リヒトホーフェンはふと疑問を感じた。
「もうお前にこれは必要あるまい」
 ダークマンの囁きがその答えだった。
 翼に手をかけられた、まさか、とリヒトホーフェンが思う間もなく、彼の翼
は根元から引き千切られた。リヒトホーフェンは今再び苦痛の絶叫をあげた。
「ギィィィィィ!」
 よせ、と思った。
 やめろ、と思った。
 莫迦な、と思った。
 この状況で翼をもぎ取るということは、空中から墜ちるということだ。この
高さ、いくら吸血鬼でもただでは済まない。
「よせ、墜ちる気か、と言いたげだな。その通りだとも! さあ、一緒に墜ち
ようじゃないか、マンフレート・フォン・リヒトホーフェン!」
 背中の吸血鬼は狂っている、ということを理解したリヒトホーフェンは今度
は苦痛ではなく、久方ぶりに、恐らく吸血鬼になってから初めて、恐怖の絶叫
をあげた。
 ぐるぐると回転しながら、蛇のように絡み合う二体の吸血鬼は地上へ墜落し
た。


                ***


 もがき苦しんでいたリヒトホーフェンのとどめを刺したはマクマナス兄弟の
ベレッタだった、頭に二発、心臓に二発。片翼の悪魔はあっけないほど灰にな
った。
「ダークマン……生き……てる…?」
 恐る恐るキャルが倒れ込んでいる彼に近付く、シエルは彼の様子を慎重に見
て、ため息をついた。
「ちょ、まさか……っ!」
「え? ……ああ、生きてますよ。まだ大丈夫みたいです」
「……という訳だ」
 ダークマンが言葉を継いだ。
 キャルは胸を撫で下ろした。とにかく死んでいないのなら、大丈夫だ。後は
何とでもなる、何しろ不死身の吸血鬼なんだから、彼は。
 シエルが一瞬沈痛な表情を浮かべたが、キャルはそれに気付くことなく、ダ
ークマンの傍に寄った。しゃんとしろよ、と言いながら手を差し出す。だが、
ダークマンは黙って首を横に振った。
「すまんが、もう少し待ってくれ。……シエル、あんた達は先に行け」
「でも」
「いいから往け、あんた達にはあんた達でやることがあるだろう? ここでぐ
だぐだしていても……何にも……ならん」
 ダークマンは咳き込んだ。
 シエルはしばらく迷ったが、「分かりました」と言って頷き、立ち上がった。
「すいません、私とマーフィとコナーは先に行きます。
 ……気を付けて。モーラのことを、宜しくお願いします」
「ああ……あんた達もせいぜい気をつけるんだな」
 シエルがモーラのハンマーを差し出した。ダークマンは手を伸ばすのも億劫
らしいので、キャルが代わりにそれを受け取った。ずしり、と超重のその物体
に彼女は顔をしかめた。
「それでは。貴方達に神のご加護を」
「シエル、がんばりなよ」
「貴女も――いえ、貴方達も」
 三人はヴァチカンに向かって走り出し、やがて何処ともなく消えて行った。
 キャルはまだ動かないダークマンの隣に座る。
「雲行きが怪しいな、雨が降るかもしれん」
 ダークマンが鼻をひくつかせた。
 キャルは少し苛ついてダークマンの手を取った。
「おい、いいかげんに休憩は終わりにしろよ。ほら、立て!」
 ダークマンの視線が、キャルを真っ直ぐに射抜いた。彼の瞳がひどく申し訳
なさそうな感情を見せる。
「すまない、私はもう駄目だ。駄目なんだよ」
「な――」
 思わずキャルは身を起こした。ダークマンの発言に頭が混乱する。
「でも、だって、そんな――」
「もう私は吸血鬼ではない。此処に在るのはただの残骸に過ぎないんだ」
 慌ててキャルは黒のコートの前を広げた。血みどろの包帯、そして直らない
傷、噴き続ける血。
「今、実感して分かった――諸井霧江が、足掻くのを止めたらしい」
 その言葉の意味を理解するのに、キャルは三秒かかった。
「じゃ、じゃあ――アンタ、今――」
「そう、人間に戻っている……しかし、よりによって……墜落途中で……傷も
修復してないっていうのに……人間に戻らなくても……な」
「ど、どうし――」
「どうしようもないんだ。シエルの法術でも駄目なんだ、今、こうして普通に
話していることが奇跡に近いのだよ」
 キャルはダークマンの肩を掴んだ。
「しっかりしてよ! アンタが……アンタが、いなくなったら!」
「いなくなったとて、どうと言うこともないさ。
 お前にはまだモーラがいる、モーラにお前が必要なように、お前にもモーラ
が必要なんだ。ちょうど、私がジュリーを必要としたように」
 やけに肌寒い、とダークマンは思った。しかし、今はその寒さもどうでもい
いように思われる。力が抜けて、惨く眠くなってきた。だからだろう、目尻に
涙が浮かぶのは、きっと欠伸を噛み殺したせいだ。
「……償いだったんだ」
 そう、これだけは言っておかねばなるまい、とダークマンは考えた。
「つぐ……ない?」
「そうだ。私の作った人工皮膚……が、悪用される……償い……」
「ちがっ……だって! アンタは火傷患者のために――」
 哀しそうにダークマンは首を横に振った。
「それは生きているときの話だ、ペイトンがこの私となってから……なってか
ら、私は自分が元通りの姿になるためだけに、この皮膚の研究を……続けてい
た……知っていたんだよ、全部。この皮膚が完成すれば……吸血鬼も、日光を
克服できるようになる、なんて、ことは……」
 ショックでキャルは身動き一つ取れなかった。
 ダークマンは気付いていなかったが、もう彼の目は涙が次から次へと溢れ出
し、止まらなかった。
「知っていたのに……私は……元の自分に戻りたかった……研究を続けなけれ
ば……続けなければ……もしかしたら、こんなことには……」
「違うよ」
 キャルはダークマンの手を力強く握り締めた。死に覆われつつあるダークマ
ンには、彼女の手の感触だけが生きている感覚でもあった。
「遅かれ早かれ、こいつらはこうしたよ。
 あんたが……ダークマンがいてもいなくても、皮膚ができてもできてなくて
も。こいつらは」
 救われる言葉だとは到底思えなかった。救える言葉だとは到底思えなかった。
 にも関わらず、ダークマンは微笑んだ。
「そう言ってくれると、わずかに気が楽になるな。
 それから……もうダークマンと呼ばなくていい、そう呼ばれるには少しばか
り私はセンチメンタルすぎるらしい」
 雨が降り出した、叩きつけるような雨。ダークマン――ペイトンはにわか雨
だと言った。
 それは困る、とキャルは思った。何しろ彼女も目尻から涙が流れて止まらな
いのだ、それが彼にバレたらどうしようか。
「たのし……」
「え? 何?」
 ペイトンの呟きをキャルが聞き返す、口元に耳を近付けた。
「たのしかった、お前さんと、それからカレンとモーラ……一緒に何かをやる
のは、一人で研究を続けていた時よりずっと、楽しかった……全く、復讐鬼に
は相応しくない感情……だ……」
「あたしも――」
 楽しかった、とキャルは言った。もう誤魔化すことはできなかった、顔がく
しゃくしゃになり、後から後から涙が溢れ、悲哀の表情を隠せない。
「さようなら、我が愛しい娘(マイドーター)。お前と、モーラが……生き残
るよう、心から祈っ……て……………………………………」

 意識が暗転する。
 そして、ペイトンは幻影を見た。
 ジュリーが微笑み、手を振っている。思えば、自分の前半の人生は彼女に逢
うためだけに費やされたと言っても過言ではなかった。ずっと感じていた罪悪
感――自分が人工皮膚の研究をしなければ、彼女は巻き込まれなかったのでは
ないか、そういう想いを吹き飛ばすような笑顔。
 ふとペイトンは自分の両手を見た、信じられないことに両手は産まれてから
ダークマンになるまでの、あの見慣れた両手に戻っていた。
 顔を触る、作り物の皮膚ではない本物の皮膚。
(ペイトン!)
 ジュリーが叫ぶ。
 ペイトンは走り寄ってジュリーを抱き締めた。幸福で安穏な日々がずっと続
くと思っていた、あの時の気持ちが思い出される。
(行きましょう、私が案内するわ。未練が残ってるのは分かるけど……もう、
貴方は働きすぎたみたい)
(ああ……後は、キャルが何とかしてくれるさ。彼女はそういう可能性を持つ、
強い娘だ)
 自分はこれから何処へ行こうと言うのか、何処へ行くべきなのか。それは彼
女に任せよう、地獄でも、天国でも、ジュリーと一緒にいられるのならば、そ
れでいい。
 そして最後に、ペイトンは振り返った。
「がんばれよ」
 彼の呟きは、もちろんモーラやキャルにも届くことはなく――。

「ダークマ……ペイトン……おき…て……起きてよ、父さん(ダディ)!」
 ペイトンは答えない、脈を探る。動きはない。心臓に耳を当てる、動きがな
い。口元に耳を近付ける、呼吸もしていない。そこに在るのは、かつてペイト
ンと呼ばれた化学者で、次にダークマンと呼ばれた復讐鬼で、最後に恋人とさ
さやかだが幸せな家庭を作ることを夢見たペイトンという男の肉体だった。


 一分。
 キャルは悲しみに沈むのを一分と決めた、一分後自分は必ず立ち上がろうと。
 気持ちを切り替えろ、と言い聞かせる。
 一分後。
 彼女は立ち上がった。弾倉の数を確認する。心細いと思ったのも束の間、ふ
と見るとマクマナス兄弟がベレッタM92FSと弾倉を若干残してくれていた。
 それを腰のガンベルトに差し込む。それから、彼女はモーラのハンマーを手
に取った。重たいことは確かだが、頼りになりそうなのもまた確かだった。
 それに、彼女にだって武器が必要だろう。彼女の武器にはこのハンマーこそ
が相応しい。
 しっかりとハンマーを背中にくくりつけ、彼女は歩き出す。
 今では恐らくただ一人生き残った、彼女の“家族”に逢うために。














                           to be continued






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