堅くなれ
 堅くなれ
 この便利な身体にふさわしい精神を作るのだ
 重く堅く弱い心を鉄の扉と鎖でもって固めよう
 信仰という鍵を掛け、何者にも揺るがぬ信念として
                    吉田創「LOOTER」











「お久しぶりです、教授」
 諸井霧江が笑いながら言う。
(それで微笑んでいるつもりか?)
 心の中でダークマンは呟いた。唇の端を歪ませた陰気な笑い方。彼女が生き
ていた時とちっとも変わらない、心の底から楽しいと思っているのではない、
自分以外の全てを嫌悪し、軽蔑するときの笑いだ。
 多分、彼女の思い通りに動いてきたダークマンを嘲笑っているのだろう。
 彼は無言で諸井霧江を睨んだ。
「……ついてきてください」
 わずかに気圧された諸井霧江は振り向いて手を振る。
 ヘリから降りたダークマンは、両腕をしっかりと見張り役の吸血鬼に掴まれ
ながら艦のエレベーターで降ろされていく。
 轟音がダークマンの耳に響く。
 エレベーターは広く、明らかに人間を乗せることをあまり想定していない、
貨物専用のものであることを窺わせた。
 そして音が途絶える。
 諸井霧江が降り、ダークマンを挟んで二人の吸血鬼が後に続いた。黒鉄の胎
内に作られた真っ白な赤ん坊。
 研究室。
 本来なら揚陸艇が入るべき艦の内部に研究室は作られていた。
 輸送艦の中にあることを考えると、予想以上の大きさだった。有名な大学の
研究室といえども、これほどの施設を持っている所はそうそうあるまい。
 入り口は簡素で分厚い鋼鉄の扉。
 諸井霧江が白衣の胸ポケットからカードを取り出し、扉の脇にあるスロット
に差し込む。
 それだけで扉は滑らかに開いた。指紋照合・音声照合もなければ、パスワー
ドを打ち込んだ様子もない。
 船という孤立したものの中に存在する研究室だけに、そうそう厳重な警戒は
必要ないのだろう、この船全体が巨大なセキュリティロックをかけているよう
なものなのだから。
 ダークマンは歩きながら道順と監視カメラの位置を逐一頭の中に叩き込んだ。
 頭の中で必死に地図を作成する。
 ――山歩きをするボーイスカウトの気分。
 ダークマンはペイトンであった頃、やせっぽっちで眼鏡をかけていた自分を
強引にキャンプに連れ出した父親に心から感謝した。

 ダークマンは地図を頭に焼き付けながら歩いていたので、諸井霧江の様子ま
で観察することはできなかった。彼女は歩きながら耳を何気なく押さえる。
「――ブツッ。ザ―ッ、お二人が……彼女の元へ――ブツッ」
 耳につけたイヤホンから無線で連絡が入る。
 ――果たしてあのダンピィルは選ばれるか否か?
 イノヴェルチにとっては極めて重要な事態だろうが、今の諸井霧江にとって
は些事同然だった。
 今の彼女には、何よりも研究が重要だった。
 ――何はともあれナハツェーラー様、彼は私の好きにさせて貰いますわ。
「あの――もう一人――ブツッ――どうすれば――?」
 雑音が混じっていても、その声に下卑た欲望が明らかに現れていた。軽蔑。
 彼等の欲望もそれなりに満たしてやらなくてはならない。だがしかし、今は
まだ不味い、ペイトンが彼女の無事を確認するまでは不味いのだ。
 わずかに歩くスピードを上げる。
 そして廊下の角を曲がった時に形成された一瞬の死角、諸井霧江は素早く指
令を伝えた。
「もう少し待ちなさい」
「……」
 不満を示すかのように交信が途切れた。
 モーラと二人の邂逅の少し前の出来事。


                ***


 まさか船に乗せられるとは予想外だった。
 足枷は外されたものの、ライフルを持った吸血鬼達に周りを厳重に取り囲ま
れる。キャルは死を覚悟してでも暴れてやろうか、とも思ったがダークマンに
一縷の望みを賭けてその考えを打ち消した。
(きっと助けに来てくれる)
 無理な願いだと分かってはいても、それに縋らずにはいられなかった。自分
の首筋に注がれる視線が久しぶりに恐怖を覚えさせる。
 強姦される方が数倍マシだろう。強姦されても精神的に立ち直ることはでき
るが、血を吸われたら肉体的に二度と立ち直れない。奴隷になる。
 自分というものに何より誇りと自信を持っているキャルにとって、それだけ
は怖かった。
 だが、そんな思いを表に出すことはない。
 表に出してモーラを不安にさせるようなことはしない。横を歩くモーラにそ
っと目配せする。
 ――大丈夫、心配ない。
 モーラはそっと頷いた。
 彼女の胸の内の不安が、ほんの少しだけ解消されればいいのだけど――キャ
ルはそう願った。が、モーラの不安はそうそう解消されはしない。キャルは自
分が死んでも、モーラが無事ならばと考えている。それが分かっているモーラ
は心苦しかった、果たして自分はキャルにそこまでしてもらうほどの人間なの
だろうか?
 否、人間ですら――ないのに。
「さっさと歩け!」
 キャルの背中に突然激痛が走った。ライフルで背中を小突かれたらしい、モ
ーラが息を呑む。手枷で背中を摩ることもできず、キャルは苦悶しながら足を
動かし続けた。


 船に乗せられ、エレベーターで地下に降ろされ、それから立方体に二人して
閉じ込められた。
「立方体(キューブ)ね」
 モーラが呟いた。
 照明が眩しい、立方体の中には見事に何もなかった。床はリノリウム、周り
は強化ガラス、それ以外には何も無し。
 武器になりそうなものもなければ、トイレもなく、食料もない。
 ……仕方ないので、二人して隅っこによりかかる。幸いにも、吸血鬼達は自
分やモーラに手を出すことなく強化ガラスの扉に電子ロックをかけたきり、全
員が姿を消した。
「キャル、背中を見せて」
「ん?」
 モーラの声に応じて背中を向ける。モーラは先ほどアサルトライフルの銃尾
で小突かれた箇所をゆっくりと摩り始めた。
「ゴメン……こんなことしかできなくて」
「いいよ、気持ちだけで嬉しいから、さ」
 恥ずかしい台詞を喋ってしまったとキャルは思った。
「モーラ」
「なに?」
「今言ったこと、ダークマンに言ったらブン殴るからね」
 モーラはしばらくきょとんとキャルの顔を見つめていたが、彼女の紅潮した
頬を見て噴き出した。


 着艦したヘリのドアが開かれる。
「ようこそ、我等が艦“チェルノボグ”へ!」
 イノヴェルチの私設軍隊の制服を身につけた吸血鬼達の一斉の敬礼。
「ふむ」
 ネロ・カオスがまず艦へ降り立った。
 次いでモーガンが渋々という感じで降り立つ。
「プロトタイプは?」
「はっ、保管室で冷凍管理されております」
「ふむ……」
「お二人が到着したので、これから解凍準備を始めます。
 おい! B班は装備の準備しとけ! 今度は死人ゼロでいくぞ!」
「死人が出たのか?」
 ネロ・カオスの視線に部下の吸血鬼は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「はぁ、どうも奴さんニューヨークが気に入ったらしく、こちらに戻してくる
のにえらく苦労しました」
「災難だったな」
「三人殺られました、クソっ」
 モーガンは二人の会話を聞いて俄かに不安になり出した。自分が巻き込まれ
てはたまらない。さっさと“テスト”を行ってヨーロッパへ戻りたい。
 そして力を蓄えて、今度こそナハツェーラーへ復讐する。
 モーガンは地力の差を痛感していた、イノヴェルチの幹部になってからの漫
然とした日々。それが自分を腐らせたのだと思う。
 貪欲だった自分を思い出す、50年以上前に軍服を着てユダヤ人(モーガン
にとってはどんな人種でも構わなかったが)の拷問をありとあらゆる方法で試
していたあの頃。
 あの頃ならば、今のナハツェーラーに遅れを取ることはなかっただろう。
 あの頃ならば。


「――ん?」
 モーガンは反射的に振り向いた。わずかに漏れ感じた気配。こちらを観察し
ていたような視線。
「どうしたね?」
 立ち止まったモーガンにネロ・カオスが声を掛ける。
 二秒後、モーガンは首を横に振った。
「いや……何でもない」
 歩き出した。ネロ・カオスが気付かなかったのだから、きっと自分の気のせ
いだろう、モーガンはそう思うことにした。
 モーガンは船の上だからといって油断せず、気配を敏感に察知すべきだった
かもしれない。そうすればいくら能力が衰え始めた彼でも気付いたはずだ。
 例え彼女が親と子の間で行われる精神感応の繋がりを断つことができる僧衣
を身につけていたとしてもだ。
 含まれた敵意。
 モーガンだけに忍び寄っていたほんのわずかな殺意。
 気付くべきであった。


 船の中にソーニャ・ブルーが侵入していたことに。


                ***


「さて、キャルとモーラは無事か?」
 ダークマンが言う。
 辿り着いたガラス張りの真っ白い研究室で二人は向かい合っている。ただ一
つの扉には二人の見張りがこちらに背中を見せ、アサルトライフルを構えてい
た。
「まあ、お座り下さい。コーヒーはありませんけど」
「まず逢わせろ、話はそれからだ」
「逢わせたら暴れ出したりしないかしら?」
「どうかな」
 机の上に置いてあった電話の受話器を放り投げられた、ダークマンはそれを
受け止める。
「――ダークマン?」
 雑音が混じっていても、その声だけは間違えようがない。蓮っ葉で生意気そ
うな発音。彼は心底ホッとしていた自分に気付いた。
「念の為。まだ生きてるな?」
「アタシのことはどうでもいい! それよりモーラが……」
「モーラが?」
 唐突に音声が途切れた。ツーツー、ツーツー。
 顔を上げる。
「もういいでしょ?」と言わんばかりの諸井霧江の表情。
 この表情はマズい、と思った。
 彼女への怒りがもう一段増す、扉にがっちり掛けた錠が今にも外れそうだ。
 ――――――――。
 何とか堪えることができた。
 しかし、解放されるのは時間の問題だ。自信を持って言える、怒りが解放さ
れたら迅速に諸井霧江を完全に殺してしまうと。
 だから諸井霧江に気付いて欲しかった、彼女は今にも爆発しそうな世界で一
番危険な爆弾を弄んでいることに。


 ――少しだけ時間を戻す。


 人間のキャルより聴覚に優れていたモーラが最初に気付いた。立ち上がって
空気を送るファンの下で耳をそばだてる。
「なに?」
 キャルの問い掛けを唇に指を当てて黙殺する。
 声。
 足音。
 鋼がカチャカチャと触れ合う音。
 ライフル――!


 振り返ったモーラの表情でキャルは全てを察知した。
「モーラ、来て」
 駆け寄ってきたモーラをキャルは強く抱き締めた。
「大丈夫、まだチャンスはある。作ってみせるから、いい?」
 モーラは抱き締められながら何度も何度も頷いた、何が起こるのか解らない
分恐怖が増す。心の奥底から掻き立てられる不安。
 足音はやがてキャルの耳にも解るくらいの大きさになる。

 目にも見えるようになった。不安は倍増する。二人の男、それに続いて一糸
乱れぬ男達の姿、防弾防刃ベスト、頑丈そうなヘルメット、凶悪なマシンガン。
 ――来るべき者が来た。
 と、キャルは思った。何をされるのか、吸血か、それとも実験か、あるいは
単なる拷問か、虐殺か。彼等が来るまで後三十秒。
 その間にやるべきことを考えなくては。


                ***


 目当ての船であるチェルノボグはニューヨーク港の一番奥に鎮座している。
 セスが発信機の信号を追って辿り着いた時点で、既に港の入り口から見張り
によって固められていた。
 アサルトライフルを握り締めて周りをうろつき回る有象無象のごろつき達は
は明らかに統制が取れていない見張り方だ。
 また物音がするたびに懐中電灯で該当部分を照らしているところから、見張
り役に吸血鬼が混じっていないことも分かった。
 ただ、一定時間ごとにお互いに連絡を取り合っているらしく、一人でも反応
が無くなるとチェルノボグへの侵入が困難になるのは間違いないだろう。
 港付近の倉庫にしのび込んだ、夜中ということもあってか倉庫の中は物音一
つせず、人間も吸血鬼も存在しない。強いて言うならば、やけにかび臭いのと
床がごみだらけで極めて不潔なのが気になった。
 よく観察すると倉庫の荷物も埃を被っている。
 セスは荷札の届日を懐中電灯で照らした。一ヶ月前の日付。
「誰も居ないか」
 どうやら工場そのものが廃墟と化しているらしい、今のニューヨークでは珍
しくもなんともない。ビルやマンションが廃墟になるのだから、倉庫が廃墟に
なっても当然だろう。
 好都合だった。
 倉庫の錠を内側から外し、扉をゆっくりと開く。音を立てないように、静か
に、静かに。
 やがて扉を全開にすると、トラックをゆっくりと倉庫の中に入れ始めた。ゆ
っくりとバックしていく、セスが運転し、別の人間が手を振って合図する。
 倉庫の中にトラックがすっぽりと収まると、セスとトラックの後部に載って
いたホームレス達がぞろぞろと降り出した。
 ホームレスの数は五人。ダークマンが雇っていたホームレス達だ。彼等は赤
の他人を雇うよりはまだ信用できる。勿論彼等に危険な仕事を任せる気は毛頭
ない、ほんのちょっとだけ手伝ってもらうだけだ。
「よーし、手伝ってくれ」
 同じく後部に搭載していた黒塗りのプロパルジョンヴィークル(水中用スク
ーター)を降ろす。
 次いで装備をチェックする。
 バーネット社製のピストルクロスボウ、ワイヤーとクランク付。
 水中用ゴーグル、
 黒のスウェットスーツ、
 銀刃のコンバットナイフ、
 消音器(サイレンサー)付ベレッタM92FSピストル、
 銃身切詰(ソードオフ)済ベネリM3ショットガン、
 そしてC4爆薬とデジタル時計を組み合わせた時限爆弾。
 ナイフと拳銃はホルスターに、残りは背中のリュックに詰め込んだ。


「作戦は先に教えた通り、お前等に危険が振りかかることは多分ない。
 安心してくれ」
 緊張しきっていたホームレス達に安堵の表情が浮かぶ。
「力に自信のあるヤツ一人、ついてこい」
 セスの言葉にホームレスの一人が進み出る。
 倉庫から出ると二人は壁に沿って歩いた、やがて入り口に一番近い見張りの
姿が現れる。
 セスはホームレスに身振りで合図した、頷いて隠れるホームレス。転がって
いた空き缶を拾い上げ、全力で投げつけて伏せる。
 コンクリートの床に冴えないアルミ缶の音が響いた。
 勿論見張り役は反応する。
 ライフルを構える。懐中電灯でこちらを照らす。が、音のした地面に向かっ
て光を当てているので、その先に伏せるセスの姿までは窺えない。
 見張りの男はおっかなびっくり音のした方向へ近付いていく。
 クロスボウのグリップを握り締め、引き金に手をかけた。勿論狙撃銃の有効
射程距離とは比較にならないので、できるだけ近付いてもらわねばならない。


 男は懐中電灯で照らした箇所に異物を見つけ出した。
 全身が緊張で粟立つ、ゆっくりとその異物に近付く。もしかしたら爆弾じゃ
ないか、という恐れが彼を尻込みさせる。
 腰を引き、上半身を可能な限り仰け反らせながら一歩一歩近付く。
 ――ただの空き缶。
 そう認めるまで何十秒という時間を費やしただろう。
 念の為、缶を手で拾い上げる。アルミの缶はとても軽い、中に液体も爆弾も
詰まっている様子はなかった。
 恐怖と緊張から解放された男は大きく息を吐いた。
 ――馬鹿馬鹿しい。
 立ち上がり、缶を放り投げた。
「どうした?」
 何気ない声に男は振り返って「なんでもない」と答えようとして、喉に突き
刺さった矢に気付いた。
「?」
 巨大な疑問符。
「疑問に思ったこと」が何であるかを脳が検討する間もなく、男は地に伏して
いた。


 セスは立ち上がると、ホームレスに小声で呼びかけた。
「来い。早く早く!」
 慌ててホームレスが駆け寄ってくる、セスが死人の両腕を掴んだ。意図を察
知したホームレスは足を掴む。
「ようし、倉庫まで急げ!」
 二人で持ち上げた死体を倉庫まで運ぶ。待機していたホームレスがひっと声
にならない悲鳴をあげた。
 死体のホルスターから無線を抜き取り、一人のホームレスに押し付ける。
「操作方法分かるか?」
 ホームレスは頷いた。
「誰かがこいつに無線をしたら『こちらは異常なし』と応えろ。
 何か異常があって『こっちに来い』と言われたら時間を稼げ。
 限界だと思ったら逃げろ、いいな?」
 そしてこうも付け加えた。
「言っておくが、限界を早めに設定するんじゃないぞ。もし勝手に逃げたら戻
って来て貴様等の頭を吹き飛ばす」
 無茶苦茶な要求ではあるが、ホームレス達は拳銃を突きつけられて一も二も
なく頷いた。

 セスは倉庫からもう一度顔を出し、周りの様子を窺った。何も異常がないと
分かると、駆け足で走って港へ向かう。
 海はドス黒いコールタールのようだった、セスは音を立てないように足から
ゆっくりと水に浸かる。
 口にレギュレーターを突っ込み、ヴィークルのスイッチを入れる。
 モーターの音は覚悟していたより遥かに小さく、わずかに起きる波の音に紛
れてしまえば人の耳には届かないことは間違いなかった。
 セス・ゲッコーは大枚叩いた甲斐があったと思った、ボート屋の店主は大変
良い品物を選んでくれた。戻ることができたらチップを弾んでやろう。

 潜行は短い距離だったが、セスはすぐ隣に居るであろう見張りがいつこちら
に気付くかと思うと肝が冷える。
 なるべく岸辺から遠ざかり、迂回するように操縦する。突っ切れば五分間く
らいのところを二十分以上かけて辿り着いた。
 ライトで照らされた前方に目当ての黒鉄の塊が見える。ヴィークルのスイッ
チを切って蹴った。ヴィークルは泡を吹き出しながら海底に沈んでいく。
 浮上。
 静かなものだった。チェルノボグを見上げる、モーターの音が傍にいるセス
の躰に響く、今にも出港を始めそうだ。
「早く来い来い来い……」
 立ち泳ぎを行いながら、セスは騒動屋を待った。
 しばらくして。
 能天気なアメリカ国歌を鳴り響かせながら、年代物の複葉機がチェルノボグ
を“急襲”した。


 おお、あなたは夜明けの早い光によって見ることができるか、
 とても誇らしく、私たちが黄昏の最後の輝きで歓呼して迎えたものを?
 誰の広い縞と明るい星が、危険な戦いを通して、
 私たちが見た城壁の向こうに、そんなに雄々しく翻っていたか?


 見張り役だった男達は呆気に取られて空を眺めていた。最初は敵の奇襲かと
思ったがどうやらそうではないらしい。
 きぃん、という音と共に複葉機から花火が打ち出される。
 見張りの一人がライフルで複葉機に狙いを付ける、が、迷う。奇襲でもなけ
れば嫌がらせですらない。全くもって意味不明の出来事だ、もしかしたら吸血
鬼の気まぐれなのかもしれない。
 そうだ、こんな馬鹿なことをする人間はいない。構えて狙い、そしてライフ
ルを下ろす、何度かそれを繰り返した。


 そしてのろしの赤い眩しい光、空中で炸裂する爆弾が、
 私たちの旗がまだそこにあるという証拠を夜を通して与えた。
 おお、その星条旗はまだ翻っているか?
 自由の土地と勇者の故郷の上で。


 さて。
 見張りの人間の内、一番複葉機と他の男達から遠い場所に居た男の咽喉が突
然ナイフで切り裂かれた。
 今度は矢が咽喉に突き刺さった男ほど楽には死ねなかった。しばらくの間力
なく動き続ける手足を抑えながら、セスは他の見張りの視界から逃れた。
 幸運なことに死体の服と靴のサイズはセスとほぼ一致していた、白の汗臭い
シャツ、黒のスーツ、似非ブランドの革靴、実についている。
 自分のスウェットスーツを脱ぎ、死体から服を引き剥がす。素っ裸の死体と
クロスボウについていたクランクとワイヤーをまとめて海へ放り捨てる。
 彼の装備品はAK−74及びマガジンが五本、コルトパイソンとその予備の
弾丸及び手榴弾をぶら下げたガンベルト。セスは彼の装備品全てを有効活用さ
せてもらうことにした。
 全ての装備が終わると、彼はリュックを手にぶら下げて堂々と歩き出した。
 真っ直ぐドアに向かって進む、途中で見張りの一人がこちらにライフルを向
けて誰何の声を挙げたが、セスは親しげに手を振った。
「……?」
 彼がどう対応すればいいのか疑問に囚われている内に、セスはそそくさと船
の中へ潜り込んだ。
 セスを誰何した男はしばらく考え込んでいたが、やがて自分も知らない見張
りの一人だろうと見当をつけた。その考えに至ったのは幸運だったろう、後を
追ってきたらセスは当然彼を殺害するつもりだった。
 階段を降りながら、セスは最初に自分がやるべきことを考える。
 この爆弾を設置するか、ドライと吸血鬼のハーフを救出するか、さもなくば
ダークマンと合流するか。どれも非常に重要な事柄だった。
「なるようになる」
 そう結論付けたセスは船を手当たり次第うろつき回ることにした。


                ***


 ドアが開かれると同時に体当たりでもしようかと思っていたキャルは、突然
モーラに必死の形相でしがみつかれた。
「ダメっ!」
 モーラはドアが開いて最初に足を踏み入れた男を見たからだ。
(――ネロ・カオス!)
 多くの吸血鬼の大元とも言える二十七祖は既に吸血鬼ハンターにとっては別
格の存在であり、その中でも現実に活動し、尚且つその比類なき力を発揮して
いるネロ・カオスはまさに生きながらの伝説であった。
 何人もの凄腕で鳴らしたハンターがあっさりと屠られてきた。その中には第
十三課所属の人間達も、ダンピィルも混ざっていたはずだ。
 相対した瞬間、モーラにもハッキリと分かった。自分達では絶対にこの吸血
鬼に敵わない。例えフル装備で昼日中に立ち向かっても完璧に殺されるだろう。
 キャルもネロ・カオスを見た瞬間、その事を理解したようで緊張していた躰
から力が抜けた。
 猛獣に素手の人間が敵対することなどできやしない。
「お前が――モーラ、だな」
 名前を確認するように呟く。
 キャルを手で抑えながら、モーラがゆっくりと前に進み出た。
「そうだけど、それが――何」
「ついてこい」
 ネロ・カオスは首を動かすことで彼女の行き先を指し示した。
「モーラ……」
 キャルが心配そうにモーラの腕を掴んだ。モーラはキャルの手をそっと握り
締めて微笑んだ。
「大丈夫、生きて戻ってくるわよ」
 その時モーラはキャルの躰が震えていてくれてありがたいと思った、自分の
震えを誤魔化すことができたので。

「――ふむ」
 不安で身を寄せ合う二人の内、モーガンは人間の女――つまり、キャルの方
に目を留めた。美しいブロンド、勝気そうな瞳、豊満な肢体、どれを取ってみ
ても一級品だった。
 実際、部下達の目も彼女の方に注がれている。諸井霧江の待機という指示が
無ければすぐにでも襲い掛かって次々に犯したか、あるいは血を吸っただろう。
 諸井霧江がこの艦の主である以上、彼女の指示は絶対であるし、何よりも彼
女は自分に逆らった行動を絶対に許さなかった。
 しかし、モーガンだけは別である。
 モーガンは諸井霧江より吸血鬼として長い、そしてイノヴェルチにおいての
地位もモーガンの方が上位に立つ。
 つまり、モーガンに諸井霧江の命令を聞く義務は存在しない。念の為、彼は
周りの人間や吸血鬼に指示を出した。
「いいか、この女は私が戴く。手を出すなよ」
 ネロ・カオス以外の全員が硬直した。キャルは身を竦めた。モーガンはぬめ
りとした舌で唇を舐めた。
 赤黒い舌とちらりと見えた牙が何ともおぞましい。
 ネロ・カオスとモーガンがモーラを護るかのように両脇に立ち、立方体の牢
獄から出て行った、それに人間と吸血鬼の混成部隊が後に続く。
 やがて、ドアの外に立った見張り二名を残して全員が消えて行った。キャル
は自分がこれから先どうなるのか、ということも勿論心配だったがそれ以上に
モーラの方が心配だった。

 モーラは抵抗することもなく、無言でネロのすぐ後を追うように歩いた。周
りの部屋の構造を記憶しておく。逃げるチャンスが舞い降りた時の為に。無駄
な努力という言葉が脳裏を掠めたが、モーラの意地がそれを拒否した。
 歩きながらモーラはふと景色ではなく、自分の周りに居る人間と吸血鬼達の
様子を窺った。ネロ以外の全員が、奇妙なほどこわばった表情を浮かべている、
イノヴェルチの幹部として名を馳せるモーガンですら例外ではなかった。
 唯一怯えとか、緊張というところから縁遠いのがネロ・カオスだろうか。一
体何に怯えているのか、モーラはすぐに理解した。
 進み行く内に、モーラは自分の躰にじわじわと何かが入り込んでいくことに
気付いた、少し肌寒くなってきたせいか躰が震える。大量に発汗する、歩みが
次第次第に遅くなる。しかし、周りの連中も自分と同じペースで動きが遅くな
りつつある。
 ネロ・カオスだけが変わらなかった。彼はさっさと先行し、モーガンがその
後に続いた。
 そしてコンテナで作られた迷路のような部屋を抜け出し、一つの扉に辿り着
いた、両開きの鋼鉄の扉。
 ネロ・カオスが脇に退いて、モーラが扉の前へ立たせられる。ネロ・カオス
の合図で吸血鬼が電子ロックを解除した。
 重々しいロックの解除音と共に扉が開いた、叩きつけるような冷気がモーラ
の躰に浸透する。ネロ・カオスとモーガンが彼女を先導する。
 冷気の煙が次第に薄れ、だだっ広いだけの部屋の真中に位置する殺気と敵意
の塊が姿を現した。既に背後にいた人間や吸血鬼は半ば逃げ腰になっている。
「紹介しよう」
 ネロ・カオスが塊の前にモーラを立たせた。
「我々の神だ」

 神、という言葉に反応した塊が動いた。しかし、耳障りな金属の音がそれを
阻む。この輸送艦の錨に利用するような鎖が何重にも巻き付いて完全に塊の動
きを縛り付けている。
 けれど。それでもなお、鎖の隙間から覗く殺気に満ちた瞳がモーラの感情を
根こそぎ奪い去った、恐怖すら感じなかった。剥き出しの力と敵意、何もかも
を剥ぎ取られて、モーラは人形のように立ち尽くしていた。
 吼えた。
 人間があたふたと逃げ去ろうとする、吸血鬼が後に続こうとする、モーガン
ですら二、三歩後退した。そこで踏み止まったのはイノヴェルチ幹部としての
意地か、あるいはネロ・カオスが平然とそれを眺めているのを見た上での意地
かもしれなかった。
 いずれにせよ、モーガンは彼等を手伝わせなければならない。
「何をしてる」
 逃げようとした彼等の足がピタリと止まった。
「来るんだ」
 逃げたかったが、その言葉には抗しがたい魔力があった。言葉一つで彼等の
精神――吸血鬼ですら――をほぼ完全に支配した。
 声の支配から逃れたのはネロ・カオスとモーガンの言葉すら耳に届いていな
いモーラだけだ。
「……鎖を外せ」
 モーガンは自分の命令に確証が持てなかった。果たしてこれでいいのか、こ
れを再び離していいのか。
 吸血鬼達がライフルを構えた、前回はこれで上手くいった。至近距離からの
麻酔弾及び銀殻弾の一斉射撃。銀の弾丸ですら足止め程度にしかならないので、
彼等は遠慮なく撃つことができた。
 しかし、今回は無理矢理囮に仕立て上げたホームレス達は存在しない。この
化物がホームレスを喰っている間に撃ちまくるという訳にはいかないのだ。
 恐る恐る吸血鬼がレバーを引いた、鎖を部屋の四方に引っ張っていた留め金
が外れ、じゃらじゃらという音と共に縛鎖から神が解放されていく。

「それを貸せ」
 ネロ・カオスが一人の吸血鬼の腰に拳銃を差し込んだホルスターを指差した。
戸惑いながら、男は拳銃を引き抜いて手渡す。
 ネロ・カオスは拳銃を構え、迷わず神に向かって引き金を引いた。
 かちり。
 しょぼくれた音だった、ネロ・カオスは顔を顰める。おずおずと拳銃を手渡
した男が「安全装置が掛かっている」と言った。
 安全装置を解除してもらい、今度こそネロ・カオスは拳銃を撃った。
 轟音が部屋に篭る。
 神の肉体を鉛の弾丸が一瞬だけ傷付ける。痛みはなかっただろう、それは間
違いない、薄皮一枚をほんの少し傷付けた程度にすぎない。
 だが、音は違う。銃声は神の鼓膜を震わせた。
 瞼を開く。爬虫類のような冷淡な瞳が周りの生物全てを睨み付けた。ネロ・
カオスだけが平然とその視線を受け流す。
「起きたかね、“カイン”。では答えてもらおう」
 そればかりか神に対してあまりに不遜な発言だ、カインは牙を剥き出して怒
りの感情をネロ・カオスに叩き付けた。
「君の目の前に立っている肉体は贄に相応しいかね?」
 怒気を黙殺してネロ・カオスは言う。カインは彼から視線を外し、モーラに
その目を向ける。モーラは能面のように眉一つ動かさない。
 番犬のような警告の唸り声をあげる。モーラはようやく感情が戻ってくるの
を感じた、しかし不思議と恐怖の感情だけは沸いてこない。圧倒的な力の差に
相対した為の恐怖心の欠落?
 ――しかし、それも違うような気もする。

 モーラの無機質な瞳と敵意に溢れるカインの瞳がぶつかり合う。
 はたしてカインは四肢を震わせて立ち上がると、のそのそとモーラに歩み寄
り、彼女の周りをくんくんと鼻で嗅ぎ回った。それからカインは満足気な笑み
を浮かべた。
 笑み? モーガンは戦慄した。
 ――この化物が笑っている!
 突然カインが立ち上がってネロ・カオスを突き飛ばすと、モーラの腰を耳ま
で裂けた口で咥え込んだ。モーラは悲鳴をあげる暇もなかった。
 他の吸血鬼達も、モーガンやネロ・カオスすら身動きできない。意外な行動
ではなかったが、撃つには躊躇があった。
 モーガンが叫んだ。
「撃て!」
 反応して次々と吸血鬼達がライフルを構える。
 ネロ・カオスが命令する。
「撃つな、あれに当たる」
 ライフルを遮るように長い手を横に突き出し、一歩前に進み出る。
「全員部屋から出ておくがいい、巻き添えを喰らいたくなければ、な」
 その言葉に吸血鬼達は慌てて部屋を飛び出した、唯一落ち着きを取り戻した
モーガンだけがカインと対峙するネロ・カオスに声を掛けた。
「お前一人で何とかなるのかね、その化物は」
「さて、どうしたものか」
 モーガンは肩を竦めた。彼はこの艦の兵を総動員し、ダンピィルもろとも撃
ち殺せばそれで済むと考えていたから(ナハツェーラーは激怒するだろうが)
ネロ・カオスがそこまでカインに拘る事が理解できない。
「私は少々用事があって中座したいのだが、手伝った方がいいかね?」
「私一人で充分だ、後は好きにするがいい」
 モーガンは鼻歌混じりにその場を去った。勿論ネロ・カオスは見向きもしな
い、既にモーガンの存在など頭から消し飛んでいる。
 頭から雑多な思考を抹消し、全能力をカインに集中している。
「なぜそれを殺さない」
 ふと、単純な疑問が口からつき出た。カインはしばらく唸り声をあげていた
が、やがて先ほどの笑みを再び見せた。
 にんまり。
 同時にネロ・カオスの頭に言語が強制介入した。
「この娘に鍵の素質を見出した」
「鍵……」
 ナハツェーラーは喜ぶだろうな、とネロ・カオスは思った。そしてカインが
言語を理解する知性を持ち、あまつさえ自分に念話を仕掛けてきたことに少々
驚いた。
 少々。
 ほんの少しそう思っていたのかもしれない。いかな“プロトタイプ”とはい
え、知性のない獣が、我々の神というのはあまり嬉しくない事実だった。
「鍵があれば、必要なのは時と、場所と、扉を開く力だけだ」
「既に我々もそれは準備している」
「鍵を手に入れた以上、もう貴様等に用はない――」
「そうはいかん」
 黒い外套を捲る、そこから紅く燃える瞳が二、四、八、十六とカインを睨み
つける。猛獣の唸り声が、牙を擦り合わす音が、外套の中から聞こえる。
「我々も貴様が必要で、そして何よりその娘が必要だ。
 大人しく我々に従ってもらおうか、カインよ」
「私の子である死徒が、生意気な発言だな」
「子は親を越えるものだ。
 ふん、もっとも――」
 ネロ・カオスの呟きは興奮しきったカインには聞こえなかったろう。
 ――“プロトタイプ”の貴様の子になど、なった覚えはないがな。


 モーラは口で咥えられた瞬間、突然舞い戻ってきた恐怖で卒倒しかけたが、
何とか持ちこたえた。そしてカインとネロ・カオスの強力な思念がほんの一部
分、モーラの脳を侵食した。
「鍵」
 この化物と、それからネロ・カオスは互いに「鍵」について語っていた。
 会話は部分部分で断裂したものの、モーラには一つだけ確実に理解できたこ
とがあった。
 自分は鍵だ。
 自分がこの馬鹿げた殺戮劇の元凶なのだ、ずっと前からそうだったのだ。

 後悔した。
 ――死ねば良かった。
 ――自分が居なければ、キャルも、カレンも、ダークマンも、フリッツも巻
き込まれることはなかったのだ!
 今となってはもう遅い。
 空気になろう、とモーラは思った。何も考えず、何も抵抗することのないも
のになろう、とモーラは誓い、そして目を閉じた。


 無論、彼女の決心はカインも、そしてネロ・カオスも預かり知らぬことだ。
 モーラを口に咥えたままカインは立ち上がる、二本の足で。元々四つ足で歩
いていたのは単にその方が楽だからで、戦うのならば二本の腕を活用する。
 鮫の牙のような爪が否応なしに目についた。牙がなくとも、カインは恐らく
この輸送艦において最強を誇るだろう。
 しかし。
 血が過熱する、吸血鬼の闘争本能が掻き立てられる。アルクェイド・ブリュ
ンスタッドを追跡していた時のあの高揚感がネロ・カオスの躰を震えさせる。
 最後の戦いは高揚感どころではなかった、油断して、それから恐怖に怯えて
敗北した。今でも目を閉じると蒼い瞳を思い出す。
 しかし、アルクェイド・ブリュンスタッドや遠野志貴との再戦は最早叶うま
い。
 ――そうか。
 当たり前の事実を思い出していた。
 単純な事実が目の前に在った。

 ネロ・カオスの外套から狗が二体、三体と現れる。剥き出しの闘争本能のみ
で構成された使い魔はカインを恐れもせず、唸り声をあげて躍りかかった。


 自分、ネロ・カオスは知識への欲求を抑え切れない学者であると同時に――
心の底から血と肉が迸る戦闘に熱狂する吸血鬼、という種族であるという事を。


 思い出していた。










                           to be continued





次へ


前へ

indexに戻る