「俺を殺せば家族の命はないぞ?」
「その前にお前が死ぬ」
               ――「リプレイスメントキラー」











 ――それは、産まれて初めての“狩りのとき”。
 二人で交わした契約。
 互いに賭けるものもなく、二人で手を合わせて誓ったささやかな契約。


「――ハンターは」
「?」
「吸血鬼ハンターは、互いのパートナーが吸血鬼になった時、必ず殺さなきゃ
いけないんだって」
「ふうん」
「真面目に聞いて、お兄ちゃん。もし、私が吸血鬼になったら――」
「厭なこと言うなよ」
「殺してくれる?」
「――――どうだろ」
「私、お兄ちゃんが吸血鬼になったら必ず殺すわ」
「……そりゃありがたいな」
「約束しない? お互い自分が追う者から追われる者になった時、お互いがお
互いを殺すって」
「両方が吸血鬼になったときは?」
「……誰かが殺してくれるわよ。どうする、誓う?」
「判ったよ、誓おう。モーラが吸血鬼になったら俺が殺す」
「お兄ちゃんが吸血鬼になったら私が殺すね」


 親指をナイフで切って血を流す。そして互いにそっと押し当てた。
 誓い。
 戦友の契約。
 吸血鬼を敵に回すということへの覚悟の準備。


 モーラは回想する。
 この日から、フリッツと自分のハンターとしての人生が始まったと。


                ***


 あつい
 いたい


 あいたい


                ***


 何だか最近走りっぱなしのような気がする。
 ドライは走りながら、そう愚痴を零したくなった。まあ昔から逃げ足には自
信があったし、走ることは嫌いではないが――やれやれ!
 わずかばかり呼吸が荒くなり、ステアーAUGの重さを腕が感じ始める。汗
が目に入ってしみる。ちくしょう、何だってこの娘はこんなに元気なんだ?
 追跡者たちが咆哮する、実に猛り狂っている。人間如きに出しぬかれたとい
う怒気が館の中に満ちていた。モーラが耳ざとく背後を追いかけてくる足音を
聞き付ける。
「来たみたいよ」
「耳がいいねぇ」
 ドライは背後を振り向きざま、ステアーAUGの引き金を引く。フルオート
で発射された弾丸が闇を裂いて飛び回る、ヒットした弾丸、ヒットしない弾丸、
どちらにせよ足を止めるには十二分に効果が有る。
 唸り声。
 しかし、追いかけては来なかった。二人はそれにわずかな疑念を抱いたが、
躰は思考を無視して出口へ向かって突き進む。
 ドライが角を曲がろうとした瞬間、彼女のベストをモーラが引っ張った。
「どうし……」
「シッ」
 モーラが人差し指を口に当てた。ドライがそっと角から顔を出す。
「おいおい」
 黒いライダースーツに黒いヘルメットで完全に躰を覆った二人の吸血鬼が裂
け目を護るように立ちはだかっていた、陽の光を遮る黒衣の死者。
 ――まったくもって。やれやれ!
 ドライは大袈裟に肩を竦めて言った。
「中ボスってとこだね」
「どうするの?」
 モーラの問いに、ドライは無言でライフルを構える。
 弾倉は今ある他にはあと一つ。果たしてそれで足りるものかどうか。
「我が銃弾に神のご加護は……要らないけどね。
 モーラは? 祈っとく?」
「祈るのは事が終わってからにしておくわ」
「賢いね、モーラは」
 モーラはかすかに微笑み、ドライがニヤリと口の端を歪めて不敵な笑みを浮
かべた。深呼吸して角から腕と頭を出した。
 こちらを待ち受けていただけに彼等の反応も早かった、AK−74を即座に
構えて二人が突き出した顔に向けて一斉に射撃する。
 ドライの頬を弾丸が掠めた、躰の傍を弾丸が次々と通過していく。顔を引っ
込めた後でもなお、弾丸の嵐は吹き荒れる。
「――やれやれ」
 ドライはもう一度そう言ってため息をついた。


 その吸血鬼は憎むべき人間に向かって三十発の弾丸を発射し尽くした。空に
なった弾倉を外して交換、ベルトから新たな弾倉を引っこ抜く。
 隣の仲間もちょうど弾丸を撃ち尽くしたところだった。無防備な状況に焦燥
を抱き、弾倉を慌てて本体に挿入する。
 心地よい装着感と共に弾倉が銃と一体化する。
 引き金を引いた。
 馴染み深い発射音が聞こえたかと思うと、吸血鬼の躰は引き裂かれた。
 吸血鬼の躰が。
 痛み。
 疑問。
 振り返るとそこには、自分達と同じ黒衣の男。
 違いは真っ白な――。
 躰に銃口を押し当てられた、黒光りする銃身、円筒形の弾倉が吸血鬼の目を
引いた。弾倉が回転、そして遅れて身体を駆け巡る衝撃。
「……あ、れ?」
 ぽっかりと腹に穴が形成されていた、呆然とその穴を見ながら、吸血鬼は後
ろへ後ずさった。
 とん、と彼の頭をダークマンが指で弾いた。瞬間、ぐらりと揺れて彼は灰塵
と化した。
「出てこい、ドライ」
「カートゥーンのヒーロー気取りかい?」
 ドライがにやけて軽口を叩く、最近ダークマンは気付いたのだが彼女が軽口
を叩くのは、リラックスしている時に限っていた。してみると、彼女はこの状
況下でリラックスしてしているらしい、それは何より。
「……?」
 ドライが角からひょっこり頭を出し、続いてその下から金髪の少女が顔を出
す、ダークマンは硬直した。
「――その娘は?」
 呆気に取られてモーラを指差す、ドライは頭をぽりぽりと掻きながら少々照
れ臭そうに答えた。
「んー……何か捕まってたんだよ。人質を救出するなって言われなかったから
ね」
「救出しろと言った覚えもない」
「ふん、鬼畜」
 ダークマンはつかつかとモーラに歩み寄る、不気味な眼光に思わずモーラは
後ずさってドライの背後に回った。
「ほら、アンタが睨むから怯えているじゃないのさ」
「黙ってろ。……さて、嬢ちゃん、首をちょっと見せてもらおうか」
 モーラは頷いて首を差し出した。包帯で巻かれた無骨な手が彼女の首をいさ
さか乱暴に撫でる。ダークマンは首の両側のいずれにも噛み跡が見られなかっ
たのを調べ、息をついた。少なくとも吸血鬼ではなさそうだ。


 ――しかし、怪しいことに変わりはない。
 ――けれど、怪しまれていることに変わりはない。


「命の保障はできないが、それでも構わないか?」
 脅すような言葉に、モーラは正面から彼を見据えた。
「ええ、構わないわ」
 大人びた口調、そして態度にダークマンはたじろいだ。瞳、全てを見透かす
ような瞳、そしてまるでこちらを恐れていない――。
「……君は、もしかして」

 ダークマンがモーラを問い質そうとした時、背後が爆発した。
 否、爆発したのではない。誰かが鉄板で固められた窓から飛び出して壁に叩
きつけられていた、鉄板を突きぬけたのだ、既にその男の躰は見る影もなく挽
肉と化していた。男は手にへし折れたAK−74を握っている、外に残ってい
た見張りだろう。
 だが、なぜ――。
 疑問は即座に氷解した。窓に穿たれた穴から、ずるりと何者かが侵入する。
 ダークマン、ドライ、モーラは一斉に武器を構えた、侵入者はよろよろと床
に倒れ込み、そして痙攣しながらよろよろと起き上がる、まるで病人のようだ。
 シーツが床に落ち、顔が露わになる。
 醜い。
 頬の一部がどろりと床に滴り落ち、ぶんぶんと蝿がたかっている。肌は灰と
黒のまだらで、黒は明らかに火傷で焦げた後だった、眼球は血走り、白濁して
いて使い物にはなっていないだろう。
 呻いた。
「も……ー……らァ……」
 地獄の怨嗟のような声、だが確かにその男は少女を呼んだ。
 瞬き一つしない。凍りついたような少女の名前を確かに呼んだ。


                ***


 ――――――――ミツケタ。


                ***


「吸血鬼!」
 ステアーAUGを構える。
 AK−74を構える。
 二人の前に両手を広げて立ちはだかる。
「モーラ!?」
「ダメっ!」
「どけっ!」
 ダークマンがモーラを押しのけようとしたが、彼女は頑として動かない。
 モーラは振り返った、ゆっくりと地べたを蠢くそれを見て絶望に囚われる。
 目の前に居る吸血鬼は確かに――。
「フリ……ッツ……!」
 顔が歪み、目尻に涙が浮かぶ。こうなることはハンターになった時から、あ
の誓いの時から分かっていたはずなのだ。


 ――いつか、こうなるって。


 しかし、目の前の醜悪なまでの事実がモーラに目を逸らさせる。彼女は庇っ
ている対象に襲われようとしていることを認めまいとした。
 がっしりした両腕が彼女のか細い両肩を掴んだ。
 ねっとりとした粘着質の空気が耳元から吹いてくる。
「もー……らぁ」
 囁かれる。苦悶で搾り出されるような声、けれどその発音も、声も馴染み深
いものだった。
 そっと肩を掴まれたフリッツの手に自分の手を添える。そして自分が無能で
あることと、無力であることと、何よりも――。
 約束を護れないことに心が痛んだ。


                ***


 ――化物に向けて引き金を引くことに躊躇はない。


                ***


 フリッツが顎を裂けんばかりに開けた瞬間、咥内にS&Wの弾丸が叩き込ま
れた。もんどりうってフリッツは吹き飛んだ。
「来るんだ!」
 呆然とするモーラを片手で抱き寄せる。
 フリッツが立ち上がり、叫んだ。
「もーらぁァぁァ!」
 ダークマンがライフルの引き金を引こうとした瞬間、フリッツは彼を睨むと、
片手で銃口を捻じ曲げた。
「ちっ」
 舌打ちする。
 フリッツがドライの顔をもぎ取ろうと勢い良く腕を振るった、しかし背後か
らダークマンが抑えつける。
「行けっ!」
 言われるまでもなく、ドライはモーラを連れて廊下を引き返し始めた。フリ
ッツはしがみつかれた腕を無造作に振った。
 背中を鉄板に叩きつけられた、躰にずんと衝撃が疾って息が止まる。ずるず
ると床に崩れ落ちた。
「待……て……」
 しかし、その吸血鬼は痛みに震えながらしがみついた彼の手をあっさりと振
り払うと、二人を追って闇へと消えて行った。
 躰がピクリとも動けない。
 痛みは無い――彼の脳に施された無邪気な悪戯は痛みをこそげ取り、代わり
に怒気を際限なく膨らませる。

 ――あの吸血鬼はあの二人を殺すだろうか。
 ――殺すだろうな。
 ――屍体を見て私は何を思うだろうか。
 ――何かを思うのか、何も思わないのか。
 ――では想像してみよう。


                ***

            わたしをころして

                ***


 フラッシュバック。
 想像したドライの屍体の顔が、別の顔に取って替わった。
 電流が疾る、彼の躰に憎悪という名の力が漲ってきた。


 足音。
 複数の人間“モドキ”が駆け寄って来る。


「動くな!」
 ああ、動かないとも。
「この……野郎ッ……よくも、よくも仲間を……」
 クソ吸血鬼如きが友情とは見上げた限りだ。
「待て、銃を持ってないぞ、こいつ」
 ぐい、と抱え上げられて懐を探られた。お察しの通りだ吸血鬼諸君。私は今、
武器を一つたりとも持っていない。
「嬲ろう」
 後ろに居た吸血鬼が嬉しそうに呟いた。
「そうだ」
 同調する吸血鬼が一人。
「嬲ろう」
 二人。
「手を千切ろう」
 三人。
「足を千切ろう」
 四人。
「もがくコイツの上に座って、」
「嘲笑って小便かけてやる」
 五人。
 全員が彼を愚弄し、嗤っていた。
 ダークマンは言う。
「一つだけお前達が勘違いしていることがある」


「私はお前等を殺してなんかない」


 ざわめいた。
 けれど、ダークマンは真実を言っていたつもりだった。
「ふざけるな」
 体重60kg程度のダークマンの躰が右腕一本で持ち上がった。
「この地獄のような有様を作り出したのは貴様だ!」
「そうさ」
 持ち上げた右腕をそっとダークマンが握り締めた。
「だが、私は殺してない」
 皮と肉と骨が切断され、千切られ、折られる音。
 吸血鬼が悲鳴をあげた。
 開いた口に手を突っ込んで、下顎を裂いて舌を引っこ抜いた。
「こうしていたら“結果死んだ”だけだ」
 哄笑。

 一人が怒り、一人が驚き、一人が叫び、一人が怯える。
 怒りに震える吸血鬼が飛びかかった、袖口から取り出した血液凝固抑制剤入
りの特殊注射銃(バチルスガン)を射出。
 一瞬の沈黙、爆裂四散。
 叫んだ吸血鬼が仲間の血液を浴びてたじろいだ、間髪入れずにダークマンの
前蹴りが金的に直撃する。完全に睾丸が破壊され、激痛に悶えて蹲る。死には
しないが、にじみ出る脂汗と激痛による呼吸困難は避けられない。
 だがしかしさすがに吸血鬼ともなると、回復のレベルは人間とは比べ物にな
らない。
 数秒間、じっとしている内に痛みが加速度的に和らいでいく。しかし、その
数秒で彼は地獄を見ていた。


 地獄を作り出す化物を、見ていた。


 驚いた吸血鬼がようやく立ち直った時には、首筋に血液凝固抑制剤を注射さ
れていた。一瞬の驚愕が生死を分けることを理解したが、その教訓が生かされ
るのはどうやら来世まで待つしかないようだ。
 怯えた吸血鬼はあろうことか――背中を向けて逃げ出そうとした、下に敷い
てある真紅の絨毯で足が縺れた。肩を叩かれる、反射的に振り向いた瞬間、眼
球に指を突っ込まれ、さらに眼窩にしっかりと指を引っ掛けられたまま、先程
の八つ当たりのように吸血鬼は鉄板に叩き付けられた。
 ごしゃ、という音がして頭蓋骨と脳味噌が垂れ流される。
 それっきり彼はその物体に興味を失ったようだった、無造作に太陽の下へ放
り投げて灰塵にする。


「ひぃ」


 呷きながら生き残った男が搾り出されたのはそんな情けない悲鳴だけだった。
 ダークマンは――口元をかすかに歪ませている、彼としては笑っているつも
りだったのだが。
 彼は吸血鬼を蹴った。
「なぜ私が吸血鬼を痛めつけるか分かるか?」
 サンドバッグが呷いた。
「正義感? 防衛反応? 復讐?」
 再び蹴る。
「ノーだ。お前達吸血鬼はこちらの怒りを発散させるのに“とても具合がいい”
んだ、バラバラにしてもまだ生きようとする」
 肋骨が折れた。
 涎と血と苦痛の涙が混じって床を汚す。
「素晴らしいサンドバッグなんだよ、お前等は」
 顔面を踏み絞める、じたばたと足掻く。
 滑稽とも言えるその仕草が彼の怒りと嗜虐心をさらに駆りたてた。
 ふと、床に手頃な獲物が落ちていることに気付いた。誰が持ち込んだのやら、
それは巨大な石塊だ。吸血鬼を叩き潰すのに、これ以上ないくらい手頃だった。
 持ち上げる、ズシンとくるが持てない重さではない。両腕でハンマーを高々
と掲げた。
「だから死ね」
 潰れた。
 痙攣する躰を陽光の元へ放り棄て、彼の怒りは収まった。

「ぐっ……」
 代わりに怒涛のごとく押し寄せる疲労感。
「しまった、また任せすぎた、か」
 彼の無尽蔵な怪力は抑え切れない怒りを代償に得たものである、無我夢中で
殺戮を繰り広げた後、彼の心に去来するのは決まって虚ろな喜びだけだった。
 しかし、今はそれすら感じている暇はない。
 ショットガンを拾い上げて、走り出す。だが外を見て溜息をついた。やれや
れ、悪いことは次から次へと起こる。


 空は曇り、雨が降り出そうとしていた。


                ***


 角を曲がり、無人の部屋に入って一息。
 ドライは隣のモーラの様子を窺った、彼女は俯いて肩を震わせている。泣い
ているのか、それとも恐怖に震えているのか。
 両方だろう。
 ドライは柄でもない、と思いつつそっとモーラを抱き寄せた。
「ほら……もう銃を返しな」
 モーラの手から滑り落ちそうな拳銃を再び手にする、片手で素早く弾倉を外
して弾丸の確認。モーラの持っていた拳銃の残存弾丸は二発。投げ捨てて新し
い弾倉を挿入。少々勿体無いが、肝心なところでリロードを必要とする状況に
陥ることだけは避けたかった。
「落ち着いた?」
「……」
 沈黙。
 モーラの思考はまだ混乱していた、何を為すべきなのかハッキリしない。フ
リッツと一緒の頃は良かった、何も考えず吸血鬼を狩るだけで良かった。自分
をこんな躰で産み落とした吸血鬼達への復讐心があった、自分達が「白」の側
に居るという充実感もあった。
 しかし、吸血鬼になった兄を――果たして殺せるものか。
 彼が居なくなれば、今度こそ自分は孤独になる――。
 孤独はいい、一人でも生きていくことはできる。けれど、それならば、自分
は。


 ――何の為に生きるというのか?


 ドアのノブが派手に回った。
「フリッツ……」
「も、ぅ、らぁ、いるんだろ、へんじしてくれよぅ、もーらぁ」
 ドライはゆっくりとドアに拳銃を向け、撃鉄を起こす。
「しちゃダメだよ」
 そう耳元で囁いた、だがモーラは首を横に振り、ドライの手を離れて前へ進
み出る。
 ドアにそっと両手を添えて言った。
「お兄ちゃん」
「もぉ、らぁ。たすけてくれよ、おれ、だめだ、おまえの、ちがすいたい」
 フリッツがドアに拳を叩き付けた。
「ごめん、ね――」
 腹立たしい、何もできない自分が、何もしようとしない自分が、このまま血
を吸われても構わないと考える自分が腹立たしい。

「ダメだ、モーラはアタシと帰るんだ」
「え?」
 ドライは彼女の躰を引き寄せたかと思うと、拳銃の引き金を引いた。
 素早く三発。弾丸がドアに突き刺さった、ドアの向こうでフリッツが悲鳴を
あげた。豚のように泣き喚いている。
 ドライはモーラの両肩を掴んで揺さぶった。
「モーラ、あれはアンタの兄貴なんかじゃない! アンタの兄貴はもう死んだ
んだ!」
 その言葉にモーラが反応する暇もなく、爛れた腕がドアを突き破った。
「もぉらぁぁぁぁぁ!」
 チッ、とドライは舌打ちしてゆっくりと後ろへ退がる。周りを見渡しても出
口はフリッツが待ち構えている扉一つ、逃げ場はなさそうだ。

 ならば。

 ドアを突き破って吸血鬼が飛び出してきた、モーラをしっかりと片手に抱き
寄せてドライは彼を睨む。フリッツは意味不明の唸り声をあげるのみ。
「もぉ、らぁをよこせぇ」
「お断りだね!」
 フリッツの呷くような願いを間髪入れずに否定して、ドライは再び引き金を
引いた。恐ろしく俊敏な動作で、吸血鬼はそれを避けてこちらに飛びかかって
くる。
 モーラを出口へ向けて突き倒した、同時にフリッツに膝蹴りを打ち込む。一
発、二発。
 蹲った彼に拳銃を突きつける、
 引き金を引いた、
 腕を掴まれて持ち上げられる、
 銃弾は明後日の方向へ飛んで行った。
 ドライの腕に万力で締め上げられるような激痛が走る。
 拳銃は床に回転しながら落ちた。
 しかし、彼女の拳銃はもう一つある。
 逆の腕で腰に挿さった拳銃を引き抜き、無防備な彼の腹に撃ち込んだ。
「モーラ、アンタは逃げなさい!」
 叫ぶと同時にフリッツの躰を蹴った、地面に転がって落ちた拳銃を拾い上げ
る、しかし前方に突然現れた黒い塊に動きを止めた。
「モーラ……どきな!」
 彼女は無言で首を横に振った。
「どかない……ドライ、もういいから。貴女は逃げて」
「なっ……」
 モーラは、振り向くと儚い微笑を見せた。
 それでドライは気付いた。
 ――彼女は死ぬ気だ。


                ***


「お兄ちゃん」
 以前の呼び方でフリッツを呼ぶ、彼はドライを威嚇するように唸り声をあげ
ていたが、モーラの呼びかけに動きを止めた。
「もぅらぁ」
 少しくぐもった、けれど聞き慣れた声。
 近寄る。
「ダメだ……モーラ、ダメだってば、どけ!」
 銃を構える、
「撃たないで!」
 しかしモーラの叫びに指が凍りつく。
「あいたかったよぉ」
「ごめんね、お兄ちゃん、一人にして――」
 しゃがみこんだフリッツはモーラをしっかりと抱き寄せた、モーラは聖女の
ような神々しい微笑を浮かべて彼を受け止める。
「もう、私たちの旅はおしまい」
 フリッツは首筋に唇を近づける、口が開いて牙が見える。
「ごめんね、お兄ちゃん、わたし、約束、護れなかった」
 殺すべきだったのに。
 殺すはずだったのに。
 自分はそれを放棄していた。そしてそれは自分のやってきたこと全てを否定
することだ。ならば自分は最早ハンターではない。自分達のやってきたことは、
所詮、ただの甘っちょろい戯れ事に過ぎなかったのだ。
 その結果がパートナーの、この世に一人しかいない自分の家族を吸血鬼へと
堕としてしまった。
「ごめんね」
 もう一度謝って、自分も彼の肩口に顔を寄せる、たまらなく悔しくて、涙が
零れた。


 牙が、止まった。


 沈黙。
 ドライは状況を把握できなかった、吸血鬼がモーラの首筋に牙を突きたてよ
うとして、止まっているのだ。まるで何かを堪えるように全身が震えている。
「お兄ちゃん……?」
「だめ、だぁ」
 バリバリという音が聞こえそうなほど、フリッツはモーラからゆっくりと躰
を引き離した。モーラの両肩を掴み、フリッツは一言一言噛み締めるように言
った。
「おまえは、いかなくちゃだめだ」
 モーラの両肩からゆっくりと手を離し、出口へ向かって酷く遅い速度で歩き
出した、思わず横に避けたドライをフリッツはチラリと見て言った。
「あとを、たのむ」
 ドライは呆然と頷いた。自分の今置かれている状況が信じられない。
 この男は――吸血衝動に耐えたのだ。ギリギリのところで踏み止まったのだ。
「お兄ちゃん、待って!」
 駆け出そうとするモーラをドライは反射的に押し留めた。
「あとは、おれに、まかせろ」
 フリッツは振り返った、血走った目、崩れた頬、朽ちた肌――。しかし、ド
ライの目には、今の彼はどこか精悍なものすら窺わせた。
 フリッツの唇の端が歪む。
 いや違う、笑っているのか。
 その疑問に解答が与えられるはずもなく、フリッツは廊下を飛び出した。


                ***


「見つけたぞ!」
 フリッツが飛び出すと同時に、彼の躰へ銃弾が襲い掛かった。フリッツは避
けるでもなく、腕を十字に組んでそのまま突進する。
 弾丸は肉を裂き、骨に食い込む。しかし、フリッツの躰はそれに伴う苦痛を
神経から遮断していた。突進、三人の吸血鬼はAK−74を撃ち続ける、一人
の吸血鬼の腹へ拳を打ち出した。
 貫通。
 そのまま上へ引き裂く、顔面が下から真っ二つに断ち切られた。
 弾丸が切れたアサルトライフルの銃床で襲い掛かる、受け止めて肘で吸血鬼
の顔面をこっぴどく打ちつけた。
 吸血鬼の顔面は見事にひしゃげた、眼球がごぼりという音と共に飛び出す。
 残り一人。
 だが、フリッツは耳を澄ました、彼等の背後からさらに大勢の足音が聞こえ
てくる。この廊下に辿り着くまで、数秒というところか。
 ――いいだろう、とことんやってやらぁ。
 フリッツはタックルを仕掛けた。
 吸血鬼の躰を掴んで持ち上げ、フリッツは勢い良く走り出した、吸血鬼達は
一瞬怯んだがすぐに射撃を開始する。持ち上げた吸血鬼の躰に無数の弾丸が当
たり、その度に吸血鬼は痙攣した。
 フリッツはボロ雑巾のようになったそれを思い切り投げつけた、先頭の集団
に激突し、肉体同士がひしゃげた。
 腕を振るった、首が切断され、血が廊下一面に飛び散る。
 腕を突き出した、心臓を掴んで抉り出す、血が廊下に滴った。
 フリッツは機械的なほど腕を振るい、牙で噛み付き、吸血鬼達をたんぱく質
の塊へ変化させていった。

 最後の一人。
 同じように腕を振るった、しかし、
「止まれ」
 その一言だけで彼の躰は鎖に縛りつけられたように動かなくなってしまった。
「まったく……始末に終えんな、放っておかずに殺しておくべきだったよ」
「な、んで……」
 俺の躰が動かない、そう続けようとしたが今や舌すら動かない。
「当たり前だ」
 平然とその男は言う。
「私はお前の上位にあたる吸血鬼だ」
 そうか……!
 フリッツは死ぬ直前に見た風景を思い出した、倒れていたはずのアレがいつ
のまにか自分の背後に回り、牙を突きたてたことを。
 アレはこの男だ。
 この男が俺を――!
 首を食い千切ろうと躍起になって牙を剥くのだが、後一歩のところで凍りつ
いたように動かない。


「ただで済むと思うなよ、人間め」


                            to be continued



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