「それはそうだろうよ。幸せになることは簡単なことなんだ」
 京極堂が遠くを見た。
「人を辞めてしまえばいいのさ」
              ――京極夏彦『魍魎の匣』










 ――最早、最初の目的は何だったのか思い出せなかった。
 彼女が憎たらしかった気もするし、彼女に怒りを覚えていた気もするが――。
 今やアルクェイドの頭からはそんな余分な“もの”は消え失せている。
 では、何が彼女の頭を支配下に置いているのかと言うと、それは単純であり
ふれたクリアな情報だった。

 ――目の前の死徒を始末する。

 ああ、何て単純な事実なのだろう。
 アルクェイドの頭はそのシンプルな命令を実行するために、的確な行動を躰
に下す。
 枝から枝へと飛び移って、地面をひた走るリァノーンを追跡する。リァノー
ンは時々背後を振り返って、アルクェイドの猛烈な追跡を視認した。
 殺される訳にはいかない、かと言って殺すのも嫌だ。
 リァノーンは常にその考えが頭にこびりついていて、追跡者を始末すること
に躊躇いを覚えていた、そして現にこれまでなるべく被害は最小限に留めてき
たつもりだった。
 ――けれど、もうそんな事は言っていられない。

 アルクェイドはあれほどこちらを執拗に妨害しようとしていた枝が、既にそ
の動きを止めていることに気付いた。
 ――ようやく効果がないことに気付いたのね。
 感情を吐き出す余裕があれば馬鹿な死徒、とアルクェイドはせせら笑ったこ
とだろう。
 リァノーンがまたアルクェイドの姿を振り返って見た――と同時に地面から
突き出た枝に足を絡ませて、転んだ。
 吸血鬼にあるまじき無様さに、アルクェイドはせせら笑った。
 ――追い付いた!
 アルクェイドは一気に間合いを詰めると、地面に降り立ち、未だ呆然と地面
に臥しているリァノーンを見下ろした。
「……あら、観念したの?」
「――」
 リァノーンはもごもごと口を動かして、何事かを呟いたようだが、アルクェ
イドの耳には届かなかった。
 届いたとしても、その言葉が何ら意味を成していないことに、アルクェイド
はやはりあざ笑っただろう。
 何故ならば、彼女はこう言ったから。


 ――ごめんなさい。


 突然アルクェイドの腹に鈍い痛みが走った。
 ――ナニ、コレ?
 ぼんやりと自身の腹を見ると、鋭く尖った白木の杭が彼女の腹を抉って飛び
出していた。
 いつ自分の腹に突き刺さったのか――それを考える暇もなく、左胸に新たに
別の杭が“浮かび上がった”。
「……まさ、か」
 念動力で飛んでくるモノならば、たとえ何十本飛んでこようが空気の流れを
察知して叩き落せる自信が、彼女にはあった。
 だがしかし。
「空想……具現……」
 膝に、ふくらはぎに、太股に、脇腹に、腕に、それからご丁寧に心臓に白木
の杭が浮かび上がり、突き刺さった状態が具現化した。
 突然空間から出現したものを、ましてや自分の躰に突き刺さった状態で具現
したものを叩き落すことは、いかなアルクェイドといえども不可能だった。
 ――罠、だったのか。
 念動力で森の木々を操ったことも、
 突き出した枝に足を躓かせたことも。
 何もかも、自分をここまで何もさせずに近付けさせるためだけにやったこと
なのか。
 ――案外、やるじゃない。
 アルクェイドは素直に賛嘆することにした。

 アルクェイドが地面に崩れ落ちる。
 リァノーンは軋むような頭痛を堪えて立ち上がった。空想具現化という能力
の存在は知っていたものの――実際に使うのは初めてだった。
 だが、“離れたものを動かす”という念動力とある意味で似通っているこの
能力、もしかすると自分の境界(フィールド)――そう、つまり“森”ならば
使えるのではないか、前から思っていたことだ。
 ――恐ろしくて、使う気がしなかったけど。
 目の前で針鼠のように白木の杭に串刺しにされた吸血鬼。
 中世の頃、このように変わり果てた魔女――多くはただの人間だったが――
を幾度となく見ただろうか。
 一瞬、垣間見たあのシーンがフラッシュバックし、リァノーンは何も入って
ないはずの胃から無理矢理胃液を吐き出した。
 しばらく臥せて気分の悪さを抑えようとする。
 だが、気分の悪さは抑えられず、それどころかチリチリと肌が痛い。
 “焼けるように”。
 ハッとリァノーンは気付いて、森の隙間の空を見て、青ざめた。
 ――どんどん明るくなっている! 物思いに耽っている場合ではない、早く
惣太と合流して土に戻らなくては。
 振り返ってリァノーンはアルクェイドの屍体を横切ろうとして――止まった。

 ドクン。
 とうに停止したはずのリァノーンの心臓が殺意で跳ね上がった。
「あ、ら」
 地獄の底の喰屍鬼が搾り出したような呻き声。
「ま、だ、い、たの」
 彼女が、蠢いていた。
 血みどろになった躰をもがかせながら、一本、また一本と杭を引き抜く。
 ずぶり、ずぶり、と躰から粘着質な音を立てて針鼠のようだった躰が徐々に
ただの血みどろの躰に戻っていく。
「あ……」
 リァノーンの全身に悪寒が走った。
「全身に白木の杭を貫かれたくらいで死ぬと思った? わたしが?」
 あはははは、と甲高い声でアルクェイドは笑った。
 あちこちの傷からはまだまだ血が滴り落ちていたが、それらは徐々に量を少
なくさせている。
 最後の一本、心臓に食い込んだ杭を引き抜いて。
 ふう、とアルクェイドはため息を吐いた。

 リァノーンは怯えながら、じりじりと後退る。
 アルクェイドの白い服は紅に染まり、月下においてぞっとする美しさを見せ
ている。
 アルクェイドの瞳が金色に輝いたかと思うと、恐ろしい素早さでリァノーン
への間合いへ突入した。
 咄嗟に後ろに飛びのこうとするリァノーン、しかし右腕をしっかりと掴まれ、
さらにぐいと引っ張ったその躰へ拳を叩きつける。
 自分が拳を叩きつけたその勢いの良さのあまり、思わずアルクェイドは掴ん
だ右腕を離した。リァノーンは軽く三十メートルほど吹き飛び、地面に転がる。
 転がりながら、地面に血が撒き散らされた。
「げっ……はっ……」
 リァノーンの唇から血が滴り落ちる。
 腹が痺れるように痛い、アルクェイドの拳はリァノーンの肋骨を完全にへし
折っていた。
 人間だったら、吹き飛ぶ前に腹を貫かれて腸が引き裂かれていただろう。
 リァノーンはやたらと頑丈な自分の躰に珍しく感謝した。


 ――もっとも、苦しみが長引いただけかもしれない。


 リァノーンはその考えを必死に振り払いながら、対応すべき相手について考
える、考えれば考えるほど絶望に身を捩りたくなるけれど。
 それでも、何としてでもこの窮地を抜け出し、惣太と再会する。
 リァノーンのその意志だけは鋼鉄のように揺るがない。


               ***


 右腕からだくだくと血が流れ続けるせいか、意識がくらくらとする。
 妙に喉が乾いた、水が欲しい――と思った。
 否、彼が欲しいのは水ではない。それは人間であろうとする為の誤魔化しに
過ぎなかった。
 ――くそ、負けてたまるか。
 それを決して認めまいと、伊藤惣太は遠野志貴を抱えながら遮二無二疾った。
 惣太は鼻をくんくんと嗅いで、木々と獣の臭い――以外の臭いを辿った。
 そう、例えば――血の臭いとか。
 しかも、むせ返るほど濃厚な。
「マズいな」
 思わず呟いたそれを志貴が聞き咎めた。
「――なんか、マズいことになってそうか?」
「……多分」
 ははは、と志貴は力無く笑った。
 二千年ほど生きている現存する死徒の中では最古参のリァノーンと、死徒を
打ち倒すために形成された真祖、アルクェイドの全開モード。
 この森が綺麗に崩壊してもおかしくない、一大怪獣決戦だ。
「――止められるかな」
「……止めなきゃ、もっとマズいだろ」
 そりゃそうだ、と志貴は納得した。
 という訳で。
 二人の男は二人の女を止めるために必死で疾る。


               ***


 樹の枝が鞭のようにしなって、アルクェイドを樹木に叩きつけた。すぐさま
第二、第三の枝が追い討ちをかける。
 アルクェイドはうんざりしたように、恐ろしい速度で顔面を引き裂こうとす
るそれを苦も無く薙ぎ払った。
 リァノーンはさして気落ちもしてない、この程度の攻撃が通用するような相
手ではないと確信している。
 リァノーンは樹木の狭間にその身を溶け込ませた。アルクェイドはふん、と
鼻を鳴らして迷わず森に飛び込んだ。
「……逃げたつもり?」
 あざ笑うアルクェイド。この周囲に在るのならば、姿が見えようが見えまい
が関係ない。
 アルクェイドの瞳が金色に光り――。


 付近一体の樹木が残らずその存在を“消した”。


「!」
 彼女の瞳が光り輝いた瞬間、咄嗟に躰を跳ねさせて、リァノーンはほとんど
紙一重でアルクェイドの領域から身を脱することができた。
「く……」
 ただし、左脚以外は。
 くん、とアルクェイドは鼻をひくつかせた。脳が痺れるほど甘美な匂いが背
筋をぞくぞくさせる。だが、彼女の喉は乾いていない。
 死徒と違って真祖は、“水”など飲まなくても生きていけるのだ。

 アルクェイドは軽く頭を振って、あっさりと血の誘惑から逃れると、純粋に
彼女の血の追跡を行うことにした。
 リァノーンは間違いなく手傷を負っている。さて、どこに行ったのか――と
アルクェイドは沈思黙考する。
 ふと、自分の服を見た。
 ――惨い。
 白かった服が自分の血で真っ赤に染め上げられた上、あちこちがずたずたに
切り裂かれている。
 そんな服を見る内に、アルクェイドはますます腹が立った。
 このままだと、リァノーンを八つ裂きにする程度では飽き足らないくらいに。
 ――あの死徒に地獄を見せてあげよう。
 死徒になったことを死ぬほど後悔するような、惨い目に遭わせてやろう――!
 アルクェイドは獣のように四つんばいになると、両手と両足のバネを溜めて
一気に速度を上げて疾り出した。

 ところでリァノーンを屠ることに執心しているアルクェイドも、逃げながら
必死に反撃を試みるリァノーンも、慌てて彼女達に合流しようとする伊藤惣太
と遠野志貴も全く気付かなかったが、彼等が在る森には既に着々と結界が張ら
れていた。
 勿論、それは。

「せいぜい踊り狂え、化物共」
 彼等を中へ閉じ込めるための結界ではなく。
「諸共撃滅させてやる」
 ――外へ逃がさないための結界だった。


              ***


 脚の傷――いや、これを傷といっていいものかどうか。左脚、太ももからふ
くらはぎに至るまでの部分が、根こそぎその存在を“消して”いる。
 通常あるはずの痛みがないことがかえって彼女には恐ろしかった、まるで初
めからそこに肉体が存在しなかったかのようだ。
 リァノーンは、これが空想具現化によるものだろうという見当はついている
が、果たして彼女がどんなものを具現化させたのか、ということになると、ま
ったく解らなかった。
 アルクェイド・ブリュンスタッドが具現化させたもの、それは至極単純な代
物だった。
 “何もない空間”――。
 それを森の空間と交換しただけだ。
 逆に言えば、そこに在った森の空間は“何もない空間”に上書きされること
により、存在そのものが消し飛んだことになる。
 もし、リァノーンがあの空間に位置していたならば、リァノーンは足首から
先の存在を完全に消していたはずだ。
 杭を心臓に穿つ必要すらなく、この世から消し飛んでいたはずだった。
 それでもリァノーンが間一髪避けることができたのは、二千年の間に培った
経験からくる察知能力だろう。
 
 リァノーンはこそぎ取られた脚で大地を踏みしめてみた。正直、歩くのに支
障がないとは言いがたいような状態だ。
 さらに拙いことに、リァノーンはアルクェイドの姿を見失ってしまっていた。
 アルクェイドの方もリァノーンを見失ってはいたが、何としても逃げなけれ
ばならないリァノーンに比較して、彼女は比較的余裕があった。
 何故なら、こちらは相手を目視するだけでいいからだ。目視したら、後は追
跡するだけでいい。
 対してリァノーンは、アルクェイドを目視すると同時に彼女が気配を察知す
る範囲内から逃れ、かつそこから気付かれないように逃げ出さなければならな
い。
 リァノーンは怯えながら周りを窺い、
 アルクェイドは溢れる殺意を抑えようともせずに索敵する。


 ――先に相手の姿を捉えたのは。


 たとえこの森で一番高い樹の上へ昇ってみても、そこから視える風景はたか
が知れているものだ。
 ならば、どうやって彼女を追うか。
 しばしアルクェイドは沈思黙考し、とある実験を行うことにした。
 倒れこむように地面に臥し、ゆっくりと耳を地面に当てて、眼をつむる。
 色彩豊かな音が次々とアルクェイドの耳に吸い込まれるが、この時ばかりは
彼女の関心を誘わない。彼女が関心ある音はただ一つ。

 ――ずるりずるりとかすかに引き摺る足音。
 ――そろりそろりとおっかなびっくりの足音。
 ――時々止まるのは辺りの様子を窺っているから。
 ――時々動くのはこの場から一刻も速く離れないといけないから。
 ――距離はどれくらいだろう、ここから……そう、ここから。

 とても近い。
 アルクェイドは志貴が見たら顔をしかめるであろう、狂笑を浮かべると、地
面についた両手はそのままに再び森を四つ足で疾り始めた。


 ――ほら、見つけた。


 リァノーンはあっと驚いて急いで逃げ出そうとしたが、アルクェイドは彼女
の豊かな髪を掴むと手近にあった一番大きな樹に頭を叩きつけた。
 それと同時にアルクェイドの眼光が一瞬煌き、樹木の幹が蕩けたかと思うと
リァノーンの両手と両足はその樹の幹と一体化してしまった。

「つかまえた」
 晴れやかな笑顔で、アルクェイドはそう宣言した。笑顔とは裏腹に、全身に
回るドス黒い憎悪の感情は、彼女を残酷な所作に狩り立てる。
 さながら蝶のように捕らわれたリァノーンの肌に、指を押し立ててつうっと
滑らせた。
「ん……あっ」
 リァノーンがかすかに悲鳴をあげた。ほんの少し爪を突き立てられただけな
のに、彼女の躰は皮が引き裂かれ、傷口から血が滲み出た。
「ふう、てこずらせてくれたわね。この私が一瞬とはいえ死に掛かるなんて、
ロアと戦って以来よ」
「くっ……」
 リァノーンは両手に目一杯の力を篭めようとしたが、なぜか両腕が痺れたよ
うに力が入らなかった。
「ちっちっち」
 アルクェイドは以前テレビで見たドラマの俳優の仕草を真似して、口笛を吹
いて人差し指を揺らした。
 ドラマの俳優は気取った仕草でそれをやると、次にいつもこう言うのだ。
「なかなかがんばったわね、リァノーン。でも……世界じゃ二番目だったのよ」


               ***


 ――いけない。
 惣太は周りをゆっくり見回した。
 匂いが途切れた。いや、点々と続いてはいるのだが、場所があまりにも遠い。
「うわ……」
 志貴は思わず絶句した、惣太は無理もないと思った。
 付近一帯の木々が残らず消え失せていた、それらは地面からきっちり三十セ
ンチ上のところで綺麗にその存在をこの世から消している。
 吹き飛んだのではない、地面に落ちた枯葉やら枝やらは何事もなかったかの
ような状態だ。喩えるなら、この森の風景を一定空間だけカッターナイフで切
りったという感じ。
「……アルクェイドだ」
「だろうな」
 リァノーンにはこんな途方もない力は存在しない。だが、噂に名高い真祖の
姫君……アルクェイド・ブリュンスタッドなら、多分不可能ではないのだろう。
――それでも、信じられない業だ。
 そして志貴は、アルクェイドが使ったこの力――間違いなく空想具現化――
に慄然とした。
 つまり、この力を使ったということは、アルクェイドは。
「……あのバカ、本気で殺しにかかってる」
 つまり、そういう事だった。
「……疾れ、惣太! ハリーハリーハリー!」
「言われなくても解ってるっつーの!」


                ***


 リァノーンは殺されるより先にアルクェイドに訊きたいことがあった。
「お願い、一つ聞かせて……」
「あら、命乞いなら――」
「違います。単純な疑問です、なぜ貴女は私を殺そうとしているのか、それが
訊きたいのです」
「……」
 アルクェイドは訝しげな顔をする。
 それから、やれやれと頭を振った。
「呆れたものね、吸血鬼というのは罪悪感からもっとも遠い位置に在る生物だ
けど、人間の血を吸っておいて、なぜ殺されるのかという疑問を持つなんて、
相当な面の皮の厚さね」
「私は……人の血など……」
「じゃあ、あの男の死徒は? あなたが血を吸ったんじゃなくて?」
 アルクェイドが厳しい眼で追求すると、リァノーンはハッと項垂れた。
「惣太は……」
「ふうん、ソータって言うんだ。魅了の魔眼で誘惑でもした訳?
 それとも彼も不死の命に憧れて、貴女に忠誠を誓ったのかしら?」
「違います! 惣太は、私達のようになりたくてなった訳じゃない!」
 リァノーンの激昂した発言にも、アルクェイドはふうんと鼻を鳴らして、つ
まらなそうに応じる。
「へえ、じゃあやっぱり貴女が血を吸ったのね? 血を吸って、下僕にした訳
なのね」
「それも……違います……」
 今度の台詞は、如何にも自信が無さそうだった。それは彼女が無意識的に恐
れていたことだったからだ。
 下僕。
 己の意志を持たないリァノーンに仕える形代。
 惣太はリァノーンに笑顔を見せる。
 しかしそれは、もしかするとリァノーンが血を吸って吸血鬼化させたことに
よる魅了の力を受けての笑顔ではないか――。
 そういう畏れは常日頃からあった。
 愛してくれているのか、
 それとも愛させているのか、
 リァノーンはアルクェイドに反論ができなかった。

「もういいわ」
 ――これ以上、色に狂った吸血鬼を見ていられるものか。
「じゃあね、きっと今頃、あの死徒も地獄で貴方を待っているはずだから――」
 アルクェイドの右腕が月に向かって高々と差し上げられた、脳天から股下ま
でそれこそ真っ二つにするつもりで。
 リァノーンは恐怖で身が竦み、背筋が痛いほど凍えている、奥歯がガチガチ
と噛み合わなくて、ひたすら不協和音を鳴らし続ける。
「――って」
「それでは、さようなら――“女王”(クイーン)」

「――アルクェイド、待てっ」
 ……何処からか、声が聞こえる。
 遠く、とても遠くから。
 アルクェイドは耳を澄ませた。

「――リァノーン」
 ……何処からか、声が聞こえた。
 ――近くだ、彼が近くにいる!
 念話(テレパシー)。
 リァノーンと、その直系の吸血鬼である伊藤惣太は念話でいつでも会話を行
うことが可能だ、ただし、会話をするに当たっては若干の集中力が必要になる
ので、二人はこういう場合――つまり、たとえばお互いはぐれた状態での戦闘
の際は極力使わないように心がけてきた。
 もっとも、これまではぐれて戦う羽目になったことなど、一度とてなかった
のだが。
 さて、伊藤惣太が念話を使ったということはすなわち、リァノーンの姿を何
処かで目測しているということになる。
 リァノーンは、眼を見開いた。


                ***


 ――見えた。
 伊藤惣太は樹木に縛られたようなリァノーンと、彼女に向かって高々と手を
差し上げているアルクェイドを見ることができた。
「二人とも見つけた!」
「えっ、どこ、どこ?」
 志貴は慌てて惣太の視線の先を追うが、いかんせん人間の瞳では闇の森を目
視することは不可能だ。おぼろげにすら視認し得ない。
 悔しいな、と志貴は思った。
 こんな時ばかりは吸血鬼が恨めしい。
「……駄目だ」
 惣太が歯軋りして唸る。
「駄目だって何が」
「間に合いそうにないな……」
 何だって、おい。志貴は身を乗り出した。
「……仕方ない、遠野……秘策を使うぞ」
 秘策? 微妙な意味を持つその言葉に志貴は嫌な予感がした。
「秘策って、なに……」
 惣太は左手で背負っていた志貴の服の襟をがっしりと掴んだ。
「遠野!」
「だから、秘策って何!」
「翔べ」
 ……。
 ……。
 ……。
 ――おい。
 その言葉にツッコむ暇もなく、遠野志貴は吸血鬼のフルパワーでまさに文字
通り“ブン投げ”られた。
「ぁぁぁあぁぁぁあぁぁあぁ!」
 叫び声とは裏腹に、志貴はひどく落ち着いてパニックに陥っていた。
 ――あー、この間アルクェイドと乗ったジェットコースターってこんな感じ
だったなあ。
 ――あの後、貧血でブッ倒れてそれでまたアルクェイドに介抱されたんだっ
けか。
 ――それにしても凄いなあ、俺、空飛んでるよ。
 つまりは、ただの現実逃避だったが。
 目の前の風景が加速度を増してすっ飛び、ふと気がつくと、
「アルクェイド!」
「……はれ? 志貴?」
 視界にアルクェイドの金髪が飛び込んできた。

「……はれ?」
 右腕を高々と差し上げたまま、アルクェイドは聞き慣れた声に思わず振り返
った。
 こちらに猛スピードで巨大な弾丸が突っ込んでくる。


 よく見ると弾丸は人の形をしている。

 よく見ると弾丸は志貴だった。


「……志貴ぃ!?」
 アルクェイドは咄嗟に、高速で突撃してきた志貴を受け止め――そして、こ
のまま受けると、間違いなく志貴の頭が床に落ちたトマトのように潰れると判
断してそのまま後方に飛び退いた。
 二人はごろごろと転がって、下り坂をさらに転がり続けて、ところどころで
枝をヘシ折りながら、ようやく動きを止めた。
「あいててて……」
 志貴は呻きながら起きあがると、脳から血がさぁっと引いていくのが解った。
 ――ああ、こんな、時に。
 頭がぐらぐらと意識の崩壊を始め、手足が冷たくなっていく。
 志貴はいつもの感覚にまた貧血になったのだと解った。

「志貴……? 志貴! しっかりして!」
 アルクェイドは一瞬眼をしばたかせてから、素早く立ち上がり、現在の状況
よりも自分の躰よりもまず――志貴の姿を探した。
 ――居た。
 志貴は躰を丸まらせて、ぐったりと地面に横たわっている。
 最悪の想像が頭によぎり、アルクェイドは慌てて志貴の上半身を抱き起こし
た、それから手で志貴の躰のあちこちを触る。
 ――骨も折れていない、切り傷がそこかしこに見られるが、大した出血もし
ていない。
 ただの貧血……その結論にアルクェイドは至り、ほっと胸を撫で下ろした。
 今すぐにでも坂を駆け上って志貴を投げつけた――恐らく、ソータとかいう
死徒と、リァノーンを引き裂いてやりたかったが、志貴がこんな調子では放っ
ておく訳にもいかなかった。
「……もう、しょうがないなあ」
 そう困ったように笑うと、アルクェイドは志貴の頭を自身の膝に乗せた。

 今頃、死徒はリァノーンとようやく出会い、あの枝から彼女を解放している
だろう。
 その後、慌ててこの森から逃げるか、あるいは復讐を果たしにこちらへ向か
ってくるか。アルクェイドはもう、どちらでも良かった。
 逃げるなら、地の果てまで追う。
 こちらに向かってくるのなら、遠慮無く迎撃する。
 アルクェイドは今後の方針をそうシンプルに決定した。
 ――何はともあれ、志貴が蘇るまでしばらく、このままでいよう。
 志貴の顔が次第に安らぐのを見て、アルクェイドは柔らかに微笑んだ。


                ***


「――リァノーン!」
「……そ、う……た……右腕……」
 惣太は慌ててリァノーンが封じられた樹を毟り取るようにして、リァノーン
を解放する。
 左腕一本だと、意外に手間が掛かったが、それでもようやく幹から彼女の躰
を引き剥がした。
「リァノーン、大丈夫か!?」
「惣太、大丈夫ですか!?」
 お互い、相手の躰を指でそっとまさぐりながら、傷が生死に関わるものでは
ないか確認しようとする。
 リァノーンは惣太の右腕の切断面を見て、俄かに青ざめた。
 見惚れてしまうくらい、綺麗な切断だ、どんな鋭利な刃を使用してもこうは
いくまい。
 これは、刃の鋭さで切ったものではない――リァノーンは自身の膨大な知識
からそれに該当する能力を思い出した。
「あの人は……直死の魔眼の使い手でしたか」
「直死……?」
 惣太は志貴と走りながら行った会話のいくつかを思い出した。

「――俺は、視えるんだよ」
 あいつはそう言った。
「何て言うのかな、俺は“死の線”って呼んでるんだけど……。
 ああ、ここを切ればその部分を切断できるなあ、って。
 そういう線が視えるんだ」
 なるほど、と惣太は彼の言葉を理解した。
 道理でこちらの右腕が見事に切断された訳だ。
「それでさ、切断しておいて悪いんだけど。
 その右腕、当分再生は無理だと思う」
 志貴の言葉に、惣太は思わず呻きともため息ともつかないものを吐き出した。
 ――こりゃ、当分何をするにも苦労しそうだ……。

「生物非生物問わず、おおよそ全ての存在を断ち切る線を視る力――。
 それで、アルクェイド・ブリュンスタッドは彼を従僕に率いれたのですね」
 リァノーンに、直死の魔眼についての簡単な説明を受けた惣太は、最後の言
葉に首を横に振った。
「いや、従僕じゃないらしい」
「……では、あの人はアルクェイド・ブリュンスタッドとどうして共にいるの
でしょう?」
 きょとんとしたリァノーンの表情を見て、惣太は思わず微笑んだ。
「俺達と同じさ」
「私達――と?」
 後は何も言わず、惣太はリァノーンを残った腕で抱きしめた。


                ***


 ――ああ、やっと見つけた。
 ごちゃごちゃごちゃごちゃ騒がしい処をあちこち探し回って、ようやく見つ
けることができた。
 嬉しかった、彼は女性に全く興味は無かったが、恋人の元へ向かう男の心境
はきっとこんな感じなのだろう、と思った。
 二匹、ひっしと抱き合っている化物達が在る。
 ――馬鹿共奴、化物に抱擁などこれ以上ないくらい不釣合いだ。
 けれど。
 ――そこまで添うことを望むのならば。
 彼は両手に、もっと正確に言えば両手の指の間に二本三本と挟んだ銃剣一つ
一つに神の祝福、神への祈りを篭めた。
 ――願わくば。嗚呼、願わくば。
 これら一本一本が彼奴等化物共を地獄へ叩き落し、彼奴等を縛る鎖となりま
すように。
「シャッ!」

 男は、憤怒と狂喜が入り混じった修羅の如き表情で、無数の銃剣を投擲した。
 銃剣たちは風を切ってキラリとその刀身を輝かせ、二人の吸血鬼――。
「え……?」
「しまっ……」
 リァノーンと伊藤惣太の全身を、貫き通した。




 ――かくして闘争は第二ラウンドへ。








                            to be continued



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