外ではそいつが到来した痕跡は雪に埋もれ始め、風の金切り
 声は嬉々として冷酷なものとなっている。無慈悲なその音色
 には神も光明も宿っていない――あるのは、ただ闇の冬と暗
 黒の氷だけ。
          ――スティーブン・キング「人狼の四季」










 何故かクロウディアは自分の家にヴァンパイアが訪れても――もちろん、や
ってきたのはウピエルだ――さして驚きはしなかった。
 彼女は平然と窓の外に立つ彼を招き入れた。
 第六感――女の直感といってもいい――が、警告している。
 彼は自分を殺すつもりだと。
 殺して、仲間にするつもりだと。
 クロウディアは、いとも簡単にそれを受け入れた。
 今まで怯えていた死という法則、それを超越したい。死に立ち向かい、死を
征服する――それはどれだけ素敵なことか。

 招き入れた瞬間、ウピエルが言った。
「知っているか? 吸血鬼って奴は招き入れた瞬間銀も聖水も効果が消えるん
だぜ?」
 あら、そう――とクロウディアはやはり平然とその事実を受け入れた、どち
らにせよここに銀の武器や聖水は存在しないのだ。
 存在しないものに頼って何になるだろう。
 カーテンが揺らめいたかと思うと、ウピエルは一瞬にして彼女の目の前に立
ちはだかった。
 クロウディアはぼんやりとそれを見ていた。
 ウピエルは無造作に彼女の服を肩口から引き裂いた、豊かな乳房が零れ落ち、
首が剥き出しになる。
「どうぞ、ご自由に」
 ウピエルは、抵抗しようともしない彼女が少し面白くなかった。
 だが、この女を自分の意に従わせ、それから人間の犯罪組織を中から食い潰
す。
 それは実に楽しそうなイベントといえた。
 お前はその先陣だ。
 ウピエルは牙をクロウディアの首筋に突き立てた。

 ぷつり、と肉と皮の弾ける音。
 それからわずかな痛みが疾り、急速に手足が冷たくなっていく。
 死ぬ、という恐怖がクロウディアの全身に巻きついた。
 喉を鳴らす音が聞こえる。
 耳鳴りが酷く五月蝿い。
 やがて、熱が全身を駆け巡り、彼女の肢体をあますところなく蹂躙し、凌辱
し、燃え立たせた。
 それから頭に薄ぼんやりと靄がかかる。
 頭を振ってそれを振り払った。負けるものか、目の前の吸血鬼なんかに屈服
するものか。
 クロウディアは、抗し難い彼への服従に決死の戦いを挑み始めた。

             ***

「……それで、クロウディアはどうなったんだ」
 玲二の声は震えていた、それが怒りなのか哀しみなのか、当の本人にも理解
できなかったが。
「吸血鬼になって三日目、彼女はインフェルノの幹部達に呼び出されて、その
場で何をどう言われたのか解らないけど、偶然その会議に遅れたマグワイアを
除いた全員をズタズタに引き裂いたわ、そしてそれから――ここからが信じら
れないんだけど」
 モーラは飲み干したコーヒーカップを静かにテーブルに置いた。
「彼女は逃げたの、自身の主人であるウピエルから」
「逃げた……?」
「たまたま目撃したホームレスがいたのよ。ウピエルと、彼女の言い争いを―
―まあ、普通の痴話喧嘩で男がライフルなんかを連射したり女が屋根に飛び乗
って逃げたりしないから、ウピエルと彼女であることは確実ね――」
「……よく、解らないけど。それが、どう不思議なんだ」
 ふぅ、とモーラはため息をついた。
「血を吸われた吸血鬼にとって、直系からの命令はほとんど絶対なのよ。どん
な理不尽な命令だって喜んで従うし、死ねと言われたら喜んで死んでしまう。
だけど、彼女はウピエルの支配下から見事に脱出した――」

「彼女は、よほど才能があったのね」
「才能! 才能だって!?」
 玲二が激昂して立ち上がる。
「彼女に吸血鬼の――バケモノの才能があるって言いたいのか!?」
「玲二!」
 エレンの叱責も、玲二の耳には届かない。
「冗談じゃない! そりゃあ、クロウディアは――善人じゃないさ、でも、だ
からってバケモノの才能なんてあるはずがない!」
 モーラは能面のような顔で答えた。
「いいえ、それはあなたの私的な感情に過ぎないわ。プロの私が保証する。彼
女には――吸血鬼の才能と、それから主人の命令に逆らえる強い心があるわ」
 玲二はエレンの腕で強引に座らされた。
「玲二、お願い。落ち着いて――今は冷静に事実を受け止めなきゃいけないの
よ」
「解ってるさ……解ってる」
 こんな事態は初めてという訳ではない、そうだろう、玲二。
 初めてじゃない、二度目だ。
 目を閉じる、キャルの顔が瞼の裏に浮かび――。

             ***

 玲二は目を開けた。
「続けていいかしら?」
 モーラの問いに、玲二は頷いた。
「悪かった……続けてくれ」
「今から言うことが」
 モーラの瞳が落ち着いたはずの玲二の心を揺さぶる。
「私が言いたかったことなの」
 ああ。彼女はきっと、最悪に残酷な事実を教えてくれる。

「彼女――クロウディアの狙いは、あなたよ、玲二」

             ***

「それで……なんだ、日本人はデコイ役を承知したのかい?」
「ええ、承諾してくれたわ、あっさりとね」
 実際、モーラの要求を玲二は拍子抜けするほどすんなり了承した。
 驚くモーラとエレンに、玲二は言い放つ。
「構わないさ、彼女は、クロウディアは殺されないといけないんだろ? だっ
たらやるさ、囮でも、何でも」
 まるで機械が発したように歯切れのよい、そしてどこか冷たい声。
 モーラはエレンを見た。
 エレンは躊躇して――玲二を心配そうな瞳で何度も見てから、顔を伏せたま
ま承諾した。
「玲二がそうしたいって言うなら――構わないわ」

「そうかい」
 フリッツは嬉しそうだった。 
「向こうが囮らしく、余計な行動を取らないとなるとこちらの手間も省けるっ
てものだな」
「彼女の足跡は完全に途絶えてしまったわ、いつ襲い掛かってくるか解らない
から、太陽が出ている内にすぐに準備を始めましょう」
「了解」
 フリッツは実にふざけた敬礼をモーラにすると、ハマーの武器を取りに向か
った。

 玲二は机に向かって黙々とデザートイーグルの分解掃除に勤しんでいた、エ
レンも同じく武器の分解掃除をしながら、何度も彼の背に目を走らせた。
 話しかけようとしても、何も言葉が出てこない。
 何かを言ってあげなきゃいけないのに、言葉はもどかしく喉に詰まるだけ。
 ひどく胸が痛む、いつものように自分に向かって笑いかけて欲しいのに、何
かを話して欲しいのに。
 それが無理ならば、自分が話しかければいいのに、笑いかけてあげればいい
のに。
 エレンにはどちらもできなかった。

 こんな時、彼女だったらどうしただろう。
 日本で、いつまでも玲二の帰りを待つ彼女ならば、きっと慰めの言葉をかけ
たり、励ますために笑いかけたりできるのだろう。
 無言で背中を抱きしめて励ますことだって、何だってできる。
 それは、なんて素敵で羨ましいことなんだろう。
 胸に無数の針が突き刺さる、そんな幻覚が真実であるかのように、エレンの
胸は灼きつくように痛んで痛んで、仕方がなかった。

             ***

「これ、何だい?」
 フリッツが床に細い黒糸でできた網のようなものを被せていく。
 玲二は好奇心にかられて尋ねると、フリッツが不気味なほど機嫌良い表情で
答えた。
「ああ……こりゃあな、絹糸に墨汁と鶏の血を染み込ませたものだ。
 中国の吸血鬼相手によく使う、一種の簡易結界だな」
「ふうん」
 中国にも吸血鬼がいるのか……両足を揃えて跳ね回る吸血鬼の姿を玲二は思
い浮かべた。
「これでよし、と……さて、囮役期待してるぜ。せいぜい彼女に噛み付かれる
んじゃねぇぞ」
 フリッツは馴れ馴れしく玲二の肩をぽんぽんと叩いてから、部屋を出て行っ
た。
「エレン、君も――」
「嫌よ」
 別の部屋に行ってくれ、と言おうとするのを防ぐようにエレンが先制した。
「あなただけに、任せておけないもの」
 エレンは珍しいくらい強い口調でそう言った。
 玲二は肩を竦めた。
「ずいぶん信用がないんだな、俺は」
「……違う、わたしはただ――あなたのことが、心配なのよ」
「ほら、やっぱり信用してないんじゃないか」
 玲二は笑みを浮かべた、しかしそれは、いつもエレンに向ける温かい、ど
こかくすぐったいような笑みではない。
 辛辣で、よそよそしくて、どこか――突き放したような瞳。
 それを見てエレンの顔は一層憂いを帯びた。

             ***

 玲二はふと目を覚まし、エレンが起きないように足を忍ばせながら、窓を開
けた。
 空の闇は、少しずつ薄れていく。肌に突き刺さるような冷気からすると、夜
の三時、あるいは四時かもしれない。
 いずれにせよ、後二時間もすれば夜が明ける。
 そう思って空を見上げた時。
 ダン、と屋根を蹴る音がして、彼女が窓の縁に飛び降りた。
「……え?」
 玲二は馬鹿みたいに呆けた呟きを洩らした。銃を抜くとか、大声をあげると
か、そういう対策が全く思いつかなかった。
 もっとも、どちらも玲二はするつもりはなかったが。
 玲二にとってひどく懐かしい声で、彼女が語りかける。
「……久しぶり、玲二」
 何て安らげる声なのだろう、と玲二は思った。
「ああ、久しぶり……クロウディア」
「まるで、私を待ってたみたいね」
 くすくすと彼女が笑った。その笑顔はとても吸血鬼のものだとは思えない、
もしかすると何かの間違いじゃないか、玲二はほんの少しそう考えた。
 けれど、笑顔の瞬間に見せた鋭く尖った牙は、玲二を落胆させた。
「派手な……格好だな」
 玲二は改めて彼女の全身の姿を見て、呟いた。
 全身を拘束するようなレザースーツが、肉感的な躰を一層強調させている。
ところどころから覗く素肌が異常なまでに玲二の欲情を刺激する。

「ねえ」
 甘えたような、猫撫で声。
「私が、どうしてここに来たと思う?」
「……裏切った俺を、殺すつもりで……か?」
 それなら殺されても仕方ないのかもしれない――と、玲二は考えた、勿論死
ぬ気は全くないので抵抗することを決意してはいるが。
 クロウディアは一瞬びっくりしたような顔をして、それからくすくすと笑い
出した。
「違うわよ、玲二。私は貴方を迎えに来たの」
 迎えに……? 玲二は訝しげに彼女を見つめる。
「そうよ、だってあなた、私の味方だから。私の、たった一人の味方じゃない。
だから、迎えに来たの」
 クロウディアは当たり前のように玲二に手を差し伸べた。
 玲二はわずかに後ろへ退がった、クロウディアの顔が曇る。
「だめだよ……俺は、あなたとは一緒に行けない」
 きっ、とこちらを睨んだクロウディアの顔は、玲二が今まで見たことのない
歪んだ表情をしていた。
「なあ、クロウディア。吸血鬼なんて止めろよ、教会みたいなとこに行けば、
治してもらえるかもしれないじゃないか。医者だっていいさ、今の医者なら何
だって治せる」
「そう……私と一緒に、こないって言うのね」
 玲二は言葉を続けようとするが、胸が圧迫されるような感覚に喉から声が出
せなかった。
 クロウディアは顔を伏せた、屈辱のせいで体がわなわなと震える。
「あなたも、私を裏切るのね」
「違う! クロウディア、俺は……」
「そうね、きっと原因は……そこの女ね」
 玲二が振り向くと、エレンがいつのまに起きたのか、彼の傍らにそっと立っ
ていた――しかも、拳銃を構えて。

「どいて、玲二」
「え、エレン……」
「その女ね? その女がいるから、玲二は遠慮しているのね」
「よせ、エレン……彼女は」
「吸血鬼よ」
 玲二の言葉をさえぎり、彼女の親指が拳銃の撃鉄を起こした。
 かちり。
「それ以外の何者でもないわ」
「よせっ、エレン……頼む!」
「嫌。今、私が何とかしなかったら、あなたはきっと彼女と一緒に行ってしま
う」
 あなたは、そういう人――とエレンは心の中で付け加えた。
「邪魔するのね、アイン」
「するわ、絶対に」

「じゃあ、私も……あなたを殺してあげるわ!」
 クロウディアが窓から跳躍した、エレンは素早く横に転がると、相手の頭蓋
骨に正確に三発、弾丸を放った。
 ぐしゃり。
 頭蓋骨が砕ける音、脳味噌が潰れる音。
 クロウディアの体が壁に叩き付けられ、ベッドに転がった。
「エレン! なんでっ……!」
 無言でエレンは拳銃の弾丸を再装填した。
 クロウディアが立ち上がった、玲二にとっては驚いたことに――醜く吹き飛
んだ頭は既に修復し始めている。
「よくもやってくれたわね……」
 血が入った目を押さえるクロウディアは怒りに声が震えている。
 ぞくり、と玲二は背筋に悪寒が走った。
 こんな、こんな声を彼女は出すことができたのか。
 じりじりとエレンは後ずさりした、ちらりと床に敷き詰められた簡易結界を
見る。
 それから、挑発した。
「どうしたの、クロウディア? そんなところに突っ立ってないで降りてくれ
ばいいじゃない」
「ええ、降りてあげるわ。それから貴方をゆっくり刻み殺してあげる、足から
順に、脛、膝、腿、腰、腹、胸、肩、首、頭、ゆっくり刻んで食べてあげるわ」
 よし、とエレンは思った。
 ベッドの端に立つクロウディア。
 後一歩踏み出せば、必ず結界に引っかかる。
 痛みと屈辱で怒り狂っているクロウディアには、結界など見えてないだろう。

 玲二は、自失状態からようやく立ち直った。
 エレンに対して怒り狂っているクロウディア、落ち着いた様子でじりじりと
後ずさりするエレン。
 エレンの狙い――結界のトラップはもちろん玲二にも理解できた。
 だめだ、と口動かしたかったが――そんな事を言えば、エレンは間違いなく
殺される。
 生きているエレン、死んでいるけど動いているクロウディア。
 天秤にかけるにはあまりに重過ぎる。

 その時、部屋のドアがスレッジハンマーで叩き潰された。
 拍子に破片が飛び散り、ゆっくりと後ずさっていたエレンの頬を傷つける。
「!」
 刹那、エレンの意識がクロウディアから後ろに向けられた。勿論今の――戦
闘本能の塊のようなクロウディアはそれを見逃さない。
 一足飛びに襲い掛かった、結界なんてまるで関係がない。
 その跳躍力ならば結界を踏むよりおそらく先に彼女の爪が、牙がエレンを引
き裂くだろう。
「エレン!」
 ハンマーでエレンの意識が逸れた瞬間、玲二もエレンに飛び掛っていた。
 けれど、間に合わない。たった2メートル、それは絶望的に遠すぎる距離だ
った。
 エレンが遅まきながら反応して、クロウディアに銃を向けた。
 しかし、放った弾丸はクロウディアの右手に穴を穿っただけ。
 クロウディアはわずかに嗤った。
 そして紅くて歪んだクリスナイフのような爪が掲げられ――。

「やめてくれ、クロウディア!」
 そして、手首もろとも銃弾で吹き飛ばされた。
 血がエレンの顔にかかる。
「玲二……」
 クロウディアが呆然とした顔で、玲二を見つめる。
 正確には玲二ではなく、彼が手に持っている、こちらに向けている、こちら
に発射して手首を吹き飛ばした拳銃を。
 玲二のデザートイーグルの化物じみた弾丸は、彼女の手首を見事に吹き飛ば
していた。
「あなた……そんなに、この娘が大事な訳?」
 モーラが部屋に踏み込んだ。
「レイジ! エレン!」
 そして、部屋にいるクロウディアを見てはっと身をこわばらせる。
「私の手首を吹き飛ばしてもいいほど、彼女が大事なんだ」
 残った左手で、クロウディアはエレンの鳩尾を殴りつけた。
「あ……」
 エレンはたちまち意識を失って、クロウディアに抱きかかえられた。
 それからクロウディアは油断なくモーラと、遅れてやってきた男――フリッ
ツを見る。
 けれど、彼女は二人にまるで関心はなかった。
 二人は所詮、ただの敵に過ぎない。
 それよりもクロウディアにはずっと大事なことがあった。
「クロウディア……エレンを、放せ」
「だめよ、私、すごく素敵なことを思いついたんだから」
 惨く明るい声。
「すてきな、こと?」
「そう」
 彼女の笑顔はとても溌剌として美しくて、あの写真のよう。
「彼女の血を吸ってグールにするの。自分の意思を持つ吸血鬼になんかさせな
いわ、私は血を吸うだけ、絶対に何も与えない」
「なんて、ことを、いうんだ」
 玲二の喉はカラカラに乾いて、声がうまく出せない。
「そうしたら、彼女も私の命令を聞くでしょ? 玲二だって一緒に来る、ほら、
良い事尽くめじゃない」
 笑顔は全然変わらない、ただ、残酷な瞳をしているだけ。
「やめろ……絶対にそんな事、させない」
「ふざけるな、お前をこのまま逃がすと思うか!」
 フリッツは銀の矢を装填したボウガンで狙いを定めた。
「駄目! エレンに当たっちゃう!」
「それがどうした! あんな女、どうなろうか知ったことか!」
「絶対に駄目!」
 モーラが、フリッツの前に立ちはだかった。
「くっ……」
 渋々フリッツはボウガンの引き金から指を離した。
 クロウディアは、そんな後ろの騒動などまるで意に介さない。
「じゃあ、ここで吸うのも何だし少し待っててね。しばらくしたら、迎えに来
るから……!」
 再びクロウディアは跳躍して、窓の縁に飛び乗った。
「エレン! クロウディア! …………!」
「レイジ!」
 モーラの制止の声を無視して、玲二はクロウディアが消えた窓からその身を
躍らせた。
 クロウディアは屋根から屋根へ、まるで猫のようにひょいひょいと飛び移る。
 玲二は、必死に彼女を追いかけた。
 全速で屋根の上を走り、飛び乗る。汗がたちまち噴き出て、呼吸が荒れて息
苦しくなる。
 だが意志の力で体の苦しさを無理矢理脳の外へ押しやって、ひたすら走り続
けた。
 どんどん玲二を突き放していくクロウディアは、人を一人抱えているという
に息一つ切らさず走る。
 人間と、吸血鬼の絶対的な力の差。
 それは玲二を絶望させた、しかし同時に心の奥底で怒りも感じていた。
 そんなものが欲しかったのか、クロウディア。
 人を抱えて走ることができて、手首が吹き飛んでも脳味噌が吹き飛んでも平
気で、残酷に人を殺して笑うことができる、そんなくだらない力が欲しかった
のか、クロウディア――!

 クロウディアは苛立っていた。
 人間の癖に、何てしつこい奴――。
 一瞬、取って返して殺してしまおうかという考えが頭に浮かび、慌ててそれ
を追い払った。
 駄目、彼だけは駄目。
 彼は私の仲間にしないと、私はいつまでも一人ぼっちだ。
 彼なら、ファントムならきっと解ってくれる。
 長い間一緒に過ごしてきたんだもの、体を重ねなくても唯一私を解ってくれ
た人間だもの。
 同族になれば、きっと彼は私を裏切らない。
 永遠に。

 クロウディアは速度をあげようと脚に力を入れた時、奇妙に空間がねじ曲が
った感覚に襲われた。
 あれだけ天翔けるように動いた足が思うように動かない。
 視界がねじれる、先ほどまでの開放感は吹き飛んで代わりに真綿のような絶
望が彼女を締めつけていた。
 足を止めてはならない。
 吸血鬼としての本能の警告が、一瞬早く彼女を呪縛から解き放った。
 体を勢いよく横にずらした瞬間、五本の剣が屋根に突き刺さった。
 追いかけていた玲二も呆気に取られた、一体どこからこの剣が現れたのか。
 周りを見ると、一際高い屋根に立ち尽くす黒衣の者が一人。

 じゃんじゃんと吸血鬼としての本能がクロウディアの脳に、体に神経に警鐘
を打ち鳴らす。
 危険だ。
 危険だ。
 危険だ。
 逃げろ。
 逃げろ。
 逃げろ。
 逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃
げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ。

 だが、クロウディアは吸血鬼としてのその本能を信じるのがわずかに遅れた。
 足に剣が突き刺さった、灼熱の痛みにクロウディアは身悶えした。
 黒鍵、とそれは呼ばれる。
 ウピエルが血と共に与えた知識が、それを教えてくれた。
 特殊体術鉄甲作用、吸血鬼を屠る為に神の祝福を与えられし黒鍵。
 刀身の呪刻によって対象者を焼き尽くす火葬式典。
 即ち、対吸血鬼用の武器。
 これを使う連中、それもクロウディアは血によって知っている。

 人間にとって絶対の神。
 その地上の代行者を自称する、最強無比のバケモノ達。
 吸血鬼にとっての天敵、人にとっての守護者。
「さようなら、吸血鬼。初めまして、とは言いません」
 すたん、と屋根から降り立った彼女を見て、玲二は茫然とした。
 理知的だがどこかあどけない顔をした少女、それが厳しい眼で女吸血鬼――
クロウディアを睨みつけている。
 両手には無数の剣、果たしてそれはどれだけの重さなのか。
 それとも重さなど感じていないのか。

 少女は剣を構えて宣言する。
 高らかに宣言する。

「我らは神の代理人、神罰の地上代行者。
 我らが使命は我が神に逆らう愚者を、この地上からその肉の最後の一片まで
も殲滅すること――」

 それから、神への、そして死に行く吸血鬼への祈り。

「Amen(エイメン)」



次へ


前へ

indexに戻る