――メキシコ南部 とある村の外れ 午後三時四十九分

   夕焼けになる少し前






 車の外に出た途端、酷く生温い風がその場に吹きすさんでいた。
 男は極めて粘度の高い空気にあてられて、我知らず呟いた。
「腐れた臭いがする……それも、魚のか」
 彼は顔に、頬に、眼球に、首筋に、ねっとりとまとわりつく不快なものを、
不快な臭いを感じ取っていた。
 けれどどんな不快な臭いなのか、男はそれを説明することができない、ただ
不快だと思うだけ。
 そして生温い風はただの熱風であり、男が感じている臭いなど常人に感じ取
れはしない。
 しかし、よちよち歩きから一人前になったハンター達――勿論、化物専門の
――は皆、こういうものを嗅ぎ取れるのだ。
 これは死の臭いであり、血の臭いであり、おぞましい化物の腐臭であり――
吸血鬼の臭いだった。
 彼等ハンターはそれを――腐った魚の臭いと形容していた。
 腐った魚の臭い、それがあるところに奴等は居る。
 地獄の底の様子を体現したような化物――吸血鬼が。

 一体どんな怪物が最初に人の血を啜り始めたのか、それが吸血鬼と呼ばれだ
したのはいつなのか、闇の中でただ脅えていただけの人間が反撃し始めたのは
いつなのか、それは誰にも判らなかった。
 ともあれ人の血を啜って高笑いをあげるヴァンパイアと呼ばれる化物――彼
等は実在し、無辜の人間を時に殺し、時に弄び、時に下僕にして、時に吸血鬼
ハンターと呼称される人間、あるいは人間外の何かによってその永遠の命を使
い果たしていた。

 人類が反撃を始めて後、彼等は歴史の闇に篭ることになった。
 ひっそりと、まるで舞台から脇役がそそくさと降りるように。
 人は極めて忌まわしいモノを忘れやすく、だから大多数の人間は吸血鬼を妄
想の存在と認識するようになった、彼等にとっては非常にありがたいことに。
 それでも少数の人間は、人間外の者は、彼等を邪悪な存在だと認め、どちら
かが殲滅し尽くされるまで戦うことを決意していた。
 神の為に、人類の為に、復讐の為に、あるいは闘争本能を満足させる為に。
 これは――殺し、殺され、狩り、狩られる、そういう殲争だ。










『吸血大殲 Blood Lust』











 男は双眼鏡で繰り返し廃屋を観察していた。
 動く影、何かの物音、そういうものはこれっぽちも見当たらない。
「……居る?」
 車――馬鹿みたいに大きい軍用ハマーの後部座席から少女がちらりと顔を覗
かせた。ガラス越しにうっすらと綺麗な金髪が光る。
 ぞっとするくらい白い肌と紫水晶のような瞳が一層その魅力を引き立たせて
いた。
「居るな、間違いない……喰屍鬼(グール)と、その上もだ」
 くん、ともう一度鼻をひくつかせて男は応じる。
 男は廃屋の窓が中から打ちつけられていること、しかもそれが異常に厳重で
あること、周りに生物(植物ですら、だ)の姿が見えないことからそう判断し
た。
「……あれだと思う? 追跡距離を考えればここらへんで遭遇しても、おかし
くなさそうだけど」
「どうかな――俺の勘だが、微妙に違う気がする、ただの野良かもしれない」
「そう……私にも双眼鏡貸して」
「別に構わないが、どうせ何も見えないぜ。まだ太陽が顔を出しているからな
……ぐっすりとお休みのようだ」
 男はわずかに開いたカーウィンドウから双眼鏡を差し込んだ。

「ありがと」
 少女は手渡された双眼鏡を覗き込んだ。
 しばらく廃屋をゆっくりと観察する。
「……言う通りね、多分あれとは違う。でも、彼女のことを何か知っているか
もしれない」
「そうだな、あの女は確実にこのルートを通っている、野良に気付かないはず
がない――捕まえて吐かせるか?」
「――どうかしら、やれそう?」
「ウィスラーから買った紫外線投射装置があるぜ、吸血鬼相手の尋問にはおあ
つらえ向きだ」
「それに気を取られないでね、別に他に手掛かりがないという訳ではないんだ
から」
 彼女は再び双眼鏡の風景に注意を払い始めた、やはり何もない、とにかく内
部へ押しこむしかなさそうだ――。
 その時、視界に動くものが見えた。
 彼女は見ている内に次第に眉間に皺を寄せ始め、突然ハマーから飛び出すと、
トランクから巨大なスレッジハンマーを取り出した。
 とても少女の手には負えないような、そんな代物を。
 だが驚いたことに少女はそれを軽々と持ち上げると、先ほどまで観察してい
た廃屋へ突進し始めた。
「お、おい。モーラ、お前まだ……」
 男は「夜になってない」と言おうとした、少女は止まらない。
「二人……誰か、あの家に入った! 多分、人間……フリッツ!」
「馬鹿野郎、だからって!」
 フリッツと呼ばれた男は慌ててモーラと呼んだ少女の後を追って走り出す。

 フリッツ、そして混血児(ダンピィル)のモーラ。
 二人はその世界の住人なら誰もが知る吸血鬼ハンターである。
 彼等兄妹はとある事情で生まれ育った村を離れ、陽のあたる世界から背を向
けた。以来二人は吸血鬼を求めて世界を飛び回り、化物を狩り続けている。
 今度の依頼はある女吸血鬼(ドラキュリーナ)の殺害――しかし、野良犬が
うろつき回っているのなら、それも退治せねばならない。
 フリッツとモーラの吸血鬼狩りの目的は報酬ではなかった。

 そして今、二人は――というより、モーラだけはよりによってあの廃屋に飛
びこんだ人間を助けるために走り出していた。
 フリッツはいつも疑問に思う、何故モーラは人を助けようとするのだろう、
自分の命を危険に晒してまで。
 彼にそんな気持ちは毛頭ない。人間なんてどうでもいい、吸血鬼を倒す時の
障害になるのならば、躊躇うことなく切り捨てる。
 モーラにはそれが出来ない。
 それがフリッツにはいつも苦々しかった。くそ、他の人間がどうなろうが俺
達の知ったことじゃねぇ、他の人間が俺達に何をしてくれた?
 それでも、モーラはハンターになってからずっと人を救うことを止めなかっ
た。
 何度も何度も窘めた。
 運が悪かったヤツに構うんじゃない、
 そんなヤツの為に俺達の、お前の命まで危険に晒すんじゃない、
 いつまでも俺達にツキがあるとは限らない、
 お前を死なせたくない、そうも言った。
 だけど、モーラは決してそれに応じようとしなかった。
 救った人間の脅えたような、どこかで軽蔑したような視線すら、彼女の意志
を変化させることはできなかった。

 まあいい、俺は馬鹿な人間がどうなろうと構わないが――吸血鬼は必ず仕留
める、それが俺の最優先事項だ。
 フリッツはヘッケラー&コッホMP5サブマシンガンの弾倉を確認し、上部
に乗っかっているクロスボウに銀製の矢を装填した。
 準備は万全。
 モーラが廃屋の扉をスレッジハンマーで叩き壊し、二人は化物達の領域に踏
み込んだ、瞬間おぞましい呻き声があちこちから聞こえた。多分、喰屍鬼ども
の歓喜の声だ。
「ようし」
 フリッツがMP5を構えた。モーラは感覚を尖らせ、あたりを索敵する。
「さあくそったれ共、狩りのとき(タイム・トゥ・ハント)だ」


             ***


 吾妻玲二はメキシコのどこまで行っても荒涼とした砂漠のような風景にすっ
かり滅入っていた。
「そろそろ、どこかで休まないか?」
「どこかってどこで?」
 彼女の冷たく、至って理知的な反応が彼には癪に障った。
「どこでもいいじゃないか、あの廃屋だっていい」
「……そんなに休みたい?」
 玲二は疲れがある訳ではない、体力にはそれなりに自信がある。
 しかしメキシコの殺風景さはどうにも玲二の心に日本への憧憬を掻き立てた。
 もう、砂漠を見たくなかったのだ。

 けれどそんな情けないことを彼女に言えるはずもない。……いや、もしかし
たら彼女――エレンはそんな事、とうに承知の上なのかもしれない。
「……そうね、私も疲れたわ。しばらく休みましょうか」
 先行していたエレンは立ち止まり、玲二を振り返る。
 疲れているはずがないことは、明らかだった。
 ほら、やっぱり向こうは判ってた――と玲二は思った。

 地図によるとこの先に村がある、今日はそこに行くつもりだった。
 目的の村まで後20km。
 だが、玲二はわずかにひんやりとした冷気を感じて空を見上げた。
 エレンも同じく空を見上げる。
「……今日はこの廃屋で過ごした方が良さそうね」
「ああ」
 冷気はもうすぐ雨が降ることを示唆していた。

 廃屋の裏口らしいドアを開こうとした瞬間、背中をぞくりとしたものが走っ
た。玲二は一瞬ホルスターに収めた拳銃――無骨で、かつ馬鹿みたいに巨大な
デザートイーグル50AEを引き抜こうとした。
 が、思い直して彼は手で拳銃をそっと触れるだけに留めた。
 気のせいだ、馬鹿馬鹿しい。インフェルノの連中があんまりしつこいから気
が立っているだけだ。まさか、こんなところで連中が待ち伏せしているとでも
思ったのか?
 何も問題はなし、ドアを開けよう。
「待って!」
 エレンの鋭い声が玲二の動きを完全に停止させた。玲二はまさか、と思って
恐る恐る彼女の方を見る。
 だがエレンは珍しくしまった、という顔をすると
「ごめんなさい、何でもないわ」
 と言った。
「何でもない訳ないだろう――君も感じたのか?」
 エレンはさらに(彼女にしては)珍しい表情を浮かべた。
 戸惑いを見せたのだ。
「よく解らない、解らないんだけど――」
 だが、かぶりを振ってエレンは気を取り直した。
「やっぱり何でもないわ」
「そうだといいんだけどな」

 ある意味では予想通りと言うべきか、廃屋のドアを開いた途端に凄腕の殺し
屋が襲い掛かってくるようなことはなかったし、発動したブービートラップに
よって矢が突き刺さったり家ごと吹き飛んだりというようなことは当然なかっ
た。
 だからと言って安心はできない。
 廃屋はそこら中がボロボロで、あちこちの踏み板は腐って穴を穿っており、
蜘蛛の巣があちこちに張り巡らされていた。
 だが、思ったより広く、おそらく昔はそれなりの地位、あるいは富豪のよう
な人間が暮らしていたに違いないことは壊れた戸棚や、動かなくなっている柱
時計で何となく理解できた。
 玲二は周りをぐるりと見渡した、二階への階段とそれから地下に続く貯蔵庫
らしき蓋が目にとまる。
「わたしは二階へ行くわ、貴方はそこをお願い」
 そう言って先行したエレンは軽い足取りで、踏み板を飛び石のように踏み越
えていく。
 玲二はおっかなびっくりそれに続いた。
「ちぇ、俺は地下かよ」
 冗談混じりにそう言うと、階段を昇っていたエレンが応えた。
「じゃあ、代わる?」
 エレンは冗談ではなく、本気でそう言っていた。
 玲二は慌てて取り繕う。
「いや、その……冗談だよ。しっかり調べてくれよ」
「そう」
 玲二は今更ながら彼女に冗談が通じるはずがないことを思い知らされた。
 仕方のないことだけどな、と玲二はかぶりを振って貯蔵庫への扉を押し上げ
た。


             ***


 くん、と廃屋に漂う空気を嗅ぐとねっとりとした血の匂いがモーラの鼻孔を
強烈に刺激した。
 この匂いを甘美に感じるたびに自分の呪われた宿命を実感する。
 怒りと、闘志が沸いてきた。
「さて……モーラ、どちらへ行く?」
 モーラが地下貯蔵庫の扉を見て、地下へ降りることを選択した時、突然、銃
声が上からあがった。
「!」
 モーラは階段の手すりを蹴り上げると、あっという間に二階へ上る、フリッ
ツは止める暇もなく彼女を見送った。
 ……まったく、解らねェな。どうしてそんなに救いたがるんだ?
 彼女とは長い付き合いだが、長く付き合えば付き合うほど彼女が人間を救う
理由が解らなくなってくる。
 しかし、そんな事を悠長に考える余裕はないようだ。
 唸るような銃声が地下からフリッツの耳をつんざき、反射的に耳を抑えた。
 ようし、地下にもゴミ蟲どもが居るってんだな。
 フリッツは銃弾がこちらに飛んでこないことを確認しながら、地下へとその
身を躍らせていった。


             ***


 地下へ降りた玲二は朽ちた木箱、腐ったワインをぼんやりと見つめていた。
どうやらここは貯蔵庫というよりワインセラーだったらしい。
 ゆっくりと歩き、時々ワインを手に取ってみたりする。
 勿論飲めるはずもないが。
 もぞり、と背中で何かが動いた気配がした。
 咄嗟に拳銃を向けるが傾いだ木棚が障害となって、何が飛びかかってきたの
か玲二は認識できなかった、そしてその躊躇が仇となった。
「GHAAGAAHA……」
 玲二は悲痛の叫びをあげているのだと思った、だがそれが叫んでいるのは
「獲物を見つけた」という歓喜の雄叫びだった。
「なっ……」
 玲二は飛びかかってきたものの異様さに絶句した、蛆虫が顔のあちこちで蠢
き、眼球は腐って抜け落ちて真っ黒な深淵があるだけ。
 普通の人間ならば誰もが持つ、あの健康的な血色はどこにもなく、まるで死
体のように枯れ果てていた。
 まるで、死体のように。
 死体じゃないのか?
 けれど目の前のそれは確実に玲二の方を向き、意味不明言語をわめき散らし
ている。
 普段、何事もなく動く引金にかかった指が凍りついたように動かなかった。
 引金を引け、敵を撃て、ヤツの頭を粉微塵に吹き飛ばせ。
 玲二の脳髄神経はガンガンとその命令を躰に伝えようとする。
 しかし、末端である引金に掛かった指ただ一本が動かせなかった。
 のそのそと、それは玲二に近づいていく。彼の頚動脈を引き千切って、そこ
から溢れ出る血を飲む為に。
 玲二の呼吸が止まり、心臓が跳ね上がる、久しく感じたことのな
かった混じり気のない純粋な恐怖。怒りも、哀しみも、希望も何も存在し得な
いそういう恐怖。
 それから逃れる為には。
 これを撃つしかない。
「うわああああああああああああっ!」
 自身の叫びが玲二の躰を解放した、人差し指が何事もなかったかのように引
金を引いた。
 だが素人のようなあやふやな構えで放たれた銃弾は、狙ったはずの死体の頭
をすり抜け、それの肩口を掠めて明後日の方向へ飛んでいった。
 それでも強烈な銃弾のパワーはその死体に尻餅をつかせるくらいの効果はあ
ったようだ。
 玲二は考える、さてコイツは痛みを感じているのだろうか――?
 理性が脳を覆っていた混乱を引き剥がし、適切な命令を玲二の躰に与える。

 即ち、
「敵を撃て」
 だ。

 今度は狙い違わず眉間に命中した、人を弾いた瞬間の独特の手応え――そう
いうものを玲二は全身に感じた。
 尻餅をついていた死体は脳と顔を吹き飛ばされて、今度こそ倒れた――そう
思って玲二はほっと息をつく。
 だから、玲二は背中に覆い被さろうとしていた新たな喰屍鬼に気付かなかっ
た。
 ゆっくりと彼の首に喰屍鬼の両腕が回され――。

 しゅぱ、と風を切る音が玲二の耳元で轟き、背後の喰屍鬼が開いた口から後
頭部にかけて銀の矢が突き刺さった。
「え……?」
 玲二が驚いて背後を振り返ると、かすかな呻き声をあげて喰屍鬼が崩れ落ち
ていく。
 次の瞬間、殺気が叩きつけられ思わず拳銃を構えて向き直った。
 見るとすぐ目の前に男がいて、玲二にサブマシンガンを突きつけている、そ
して彼のデザートイーグルもまた男の眉間に真っ直ぐ狙いをつけていた。
 かちり、と撃鉄を起こす音がやけに響いた。
 向き直って彼に拳銃を突きつけるまで1.5秒、遅すぎる。
 玲二はいつのまにかここまで接近を許した自分に憤りを感じた。
「おいおい、物騒なものを俺に向けるなよ」
 彼に向かって油断なくヘッケラー&コッホのMP5(上部にクロスボウが搭
載されていた)を構える男が皮肉っぽい笑いを浮かべた。
「俺はそこの化物と違ってちゃんとした人間だぜ?」
 どうだか、と玲二は心の中で呟いた。
「日本人(ジャパニーズ)か、いやいやあんな国の奴がこんな処でこんな拳銃
構えているはずねぇな、韓国人か? 中国人か? おい、オレノコトバガワカ
リマスカ?」
 後半のあからさまに侮蔑した口調に玲二は胸にむかつきを覚えた。
「解るさ、アンタの薄汚い訛りだらけの英語くらいはな」
 玲二がそう流暢な英語で答えると、フリッツは感嘆の口笛を吹いた。
「へえ、英語は話せるんじゃねぇか。で、何してるんだ?」
「アンタが俺を殺そうとしているかどうか探っている」
「殺すと言ったら?」
「撃つ」
 玲二の顔は酷薄な表情に満ちていて、フリッツにもそれが本気だということ
が理解できた。


             ***


「あなた、冷静なのね」
 駆けつけたモーラが、少し呆れたようにエレンに言った。二階に昇った途端
立て続けに聞こえた銃声、モーラはすぐには信じられなかったが、それはエレ
ンの放った銃弾だった。
 モーラが見ている前で、エレンは二人の喰屍鬼に銃弾を放った。
 その銃弾は確実に、そして冷然と喰屍鬼の眉間を撃ち抜いていた。
 微塵の、躊躇も後悔も逡巡も一切合切見せぬ――。
 それはまさに芸術的とも言える殺人技術だった、ほっそりとした、けれどし
なやかな躰がゆらりと動き、次の瞬間目にも止まらぬ迅さで構えられた拳銃、
微細な照準調整、標的への真っ直ぐな視認、尋常じゃなく素早かった引金を引
く動作。
 それなのに、眉一つ動かさない。
 明らかに素人があたふたと拳銃を持ってやるそれとは大違いだった。

 モーラが駆け寄ろうとすると、エレンはくるりとこちらを振り向いて拳銃を
構え――彼女を視認して、拳銃を下ろした。
 そして言う。
「あなた、誰?」
 モーラが応える。
「あなたこそ、誰?」
 エレンはただ、「エレン」と自分の名前を名乗った。
 モーラもただ、「モーラ」と自分の名前を名乗った。
 エレンは今自分が撃ち殺した喰屍鬼達のことを何も聞かなかった。
 モーラはどうして彼女がそんな技術を持っているのか、何も聞かなかった。
「ここは危ないわ。外に出た方がいい」
 モーラがそう忠告すると、エレンは首を横に振った。
「――パートナーが、まだ残ってる。彼と一緒に脱出する」
「その人はどこに?」
「地下室――らしいところを調べに行ったはず」
「ああ」
 ……それはちょっと危ない、あっちはフリッツが調べに行っている、彼は場
合によっては平気でそのパートナーを撃ち殺すだろう。
 勿論、彼女のパートナーが人間外になっていたならば、仕方ないことだけど。
 モーラの思考を見破るように、エレンの目が警戒に細まった。
「フリッツ」」
 その視線から逃れるように、モーラは携帯していた無線で、自分のパートナ
ーを呼んだ。
「……何だ、今手が離せないんだ」
「そっちに、迷い込んだ人間が一人いるはずよ。保護してあげて、お願い」
「その、人間ってのは野郎か?」
「そうね、こっちに女の子が居たわ、だからそっちは男」
「で、アジア系か?」
「エレン、貴方のパートナーの国籍は?」
「日本人」
「……フリッツ、その人を見つけたの?」
「ああ、バッチリな」
「……どうだった?」
 モーラは少し躊躇したが、思いきって尋ねた。その人間が喰屍鬼に喰われて
なければいいのだけど。
 けれど、フリッツの応えは最悪の予想を更に裏切った状況だった。

「今、そいつと拳銃を突き付け合っているところだ」


             ***


 フリッツはしばらく玲二を睨みつけていたが、やがてゆっくりとサブマシン
ガンを下ろした、それに応じて玲二も拳銃を下ろす。
 ただし、筋肉は緊張で硬直している。それは今、この瞬間にでも拳銃を撃て
る、という玲二のメッセージだった。
「よし、いいだろう。お前は敵じゃないようだ、味方でもないようだがな」
「当たり前だ」
「行けよ、ここはお前等が居ていい場所じゃない、地獄の釜の底、究極の吐き
溜めスラムだ」
「こいつらは一体なんなんだ?」
「説明したら信じてくれるのか?」
「信じるとも、こいつらはさっきまで動いていた。どう見ても死んでいるはず
なのに、生きて動いていた」
 フリッツは動かなくなった死体を見下ろし、ベルトから白木の杭を一本抜い
た。
「違うね、こいつらは死んでいる」
 それを二つの死体の心臓に迷わず突き刺す。
「死んで、動いているのさ。――喰屍鬼ってのは」
 二つの死体はたちまち塵に還り、苦悶していた魂は解放された。
「グール? グールってのは何だ?」
「グールってのはな、喰屍鬼という意味で……下等な吸血鬼に使役される哀れ
な死体どもさ」
「ヴァンパイア……?」
 玲二は突然映画やコミックで聞き慣れた言葉が出てきたことに、しばし戸惑
った。
「ヴァンパイアってのは」
 血で汚れた杭を放り棄て、フリッツはワインセラーの闇奥を睨む。
「今、ここにいる薄汚いクソ野郎どものことだよ」
 ワインセラー内に歓喜と絶望に満ち溢れた声が反響し始めた。


             ***


「貴方のパートナーは保護したようよ」
 フリッツとレイジという男の会話を通信で聞きながら、モーラがほっと息を
ついた。
「……ありがとう」
 エレンが初めて顔をわずかに綻ばせた。
「どういたしまして。さ、悪いけどすぐにこの廃屋から出てちょうだい、これ
から忙しくなりそうだから」
 エレンは先ほどの能面のような顔に戻って頷くと、一階に降りていった。
 その瞬間、
「どこへ行くのかね? お嬢さん方」
 魂を疼かせるような邪悪な声がしたかと思うと、エレンの躰にくるりと何か
が巻き付いて、出来の悪い手品のように空中に浮き上がった。
「しまっ……」
 モーラは舌打ちした、喰屍鬼のリーダー、吸血鬼がもう活動を始めていたな
んて、早すぎる。雨が降っているとはいえ、まだ完全に太陽が隠れているとい
う訳ではないのに。
 吸血鬼は髪の毛が一本もないつるりとした頭だった、そして全身は濁るよう
な青白さ。
 瞳は黄色く濁っていて、
 針のように尖った二本の牙が、それが吸血鬼であることを示していた。
 奥歯を噛み締めて、モーラはエレンを人質に取ったそれを睨みつける。吸血
鬼はニタリニタリと底意地の悪い笑みを浮かべる。
 エレンはぶつかった衝撃で気絶でもしたのか、ぐったりと躰をその吸血鬼に
預けている。
 吸血鬼は階段の手すりに乗りながら、ぐらりぐらりと躰を振り子時計のよう
に動かしている。
 エレンの首筋にそっと青白い手があてられた。
「……」
 モーラは睨みつけたまま動かない。
「こいつは貴様のパートナーか? あるいは友人か? それともただの無関係
な人間か?」
 友達といえば、吸血鬼は喜んで彼女を人質に取るだろう。そうかと言って無
関係なら離してくれるとも思えなかった、多分血を吸い尽くして殺すだけだ。
 だが、それは隙を見せるということでもある。吸血鬼が血を吸い恍惚になっ
た瞬間、それは仕留められる絶好のチャンスだ。
 吸血鬼さえ倒せば、彼女だって元に戻る可能性はある。
 選択の余地はない。

 そのはずなのに。

「――友達よ」
 モーラはそう言いきっていた、そんな答えを出した自分に驚いていた。
「そうか、ではこの娘を人質に使うことにしよう。――その物騒な代物を階段
の下へ投げ捨ててくれないか?」
 モーラは言われた通りに、階段の下へスレッジハンマーを思いきり投げ捨て
た、物凄い音がして床下まで沈みこんだ。
「他に何も持ってはいまいな? 聖宝具は? 銀のナイフも、結界捕縛の聖典
も、白木の杭も、持ってはいまいな?」
 モーラはクスリと笑った。
「随分腰抜けなのね。人質を取っておいてそこまで念を押す?」
「押すとも、ダンピィルの吸血鬼ハンターを相手に油断しすぎると言うことは
ないからな。では、とりあえず君には眠っていてもらうことにしよう」
 一歩一歩ゆっくりと近付く、モーラには後退する以外に方法はない、そして
モーラは後退するつもりはない。
 一瞬でも隙ができれば……彼女を救出して、一階に飛び降り、ハンマーを手
にすることができる。
 その時、モーラは聞き慣れた風を切る音を聞いた。この音は――。

 モーラは迷わず突進した、吸血鬼が驚いた表情を浮かべた、
 瞳が、
「人質が惜しくないのか?」
 そう言っている。
 モーラは行動で答えた。
 惜しいから走っている。
 刹那、吸血鬼の背中に銀の矢が数本叩きこまれた。
「ぐぇっ!?」
 モーラはヒキガエルのような悲鳴をあげてふらついた吸血鬼に、躰全体で打
撃を叩きこんだ、同時に懐に潜ってエレンを引っ掴んで救い出す。

 一階から大声でがなり立てる声が聞こえる。
「モーラ! 大丈夫か、モーラ!」
 フリッツだった、モーラはエレンを抱えて叫んだ。
「フリッツ! 受け取って!」
 そう言ってエレンを階下に投げ入れた、フリッツは一瞬パニックに陥ったが
ゆらりと揺らめきながら落ちてきたエレンの躰をしっかりキャッチした。
「ふう」
「エレン!」
 半ばフリッツを突き飛ばすように玲二が駆け寄って、エレンを抱きしめた。
「大丈夫か!?」
 フリッツは先ほどまで鉄面皮のような玲二が、慌てふためいていることに少
々驚いていた、自分に拳銃を突きつけて「撃つ」と言い放った人間と同一人物
だとはとても思えない。
「フリッツ!」
 モーラの声、フリッツは再び二階を見上げる。
 止める間もなく、モーラは飛び降りていた、けれど今度は慌てることなくフ
リッツはきちんと受け止める。
「ありがと」
「なあに」
 モーラはさっとフリッツの腕から離れると、床に転がったハンマーを担ぎ上
げる。

 銀の矢を苦しみ悶えながらようやく引き抜いた吸血鬼は、先ほどの理性と知
性の仮面などかなぐり棄てて、憎悪に満ちた瞳で階下の四人を睨みつけた。
「キサマラッ! キサマラッ! たかがワレワレのエサの分際で……抵抗スル
ナッ!」
 おーおー、とフリッツが呆れた声を出した。
「たかだか銀の矢を数本食らっただけでこうまで怒り狂うとは。
お前さん小者だな」
 蔑むような笑み。
「オマエはこういうことも覚悟で吸血鬼になったんだろう? 二度と太陽の下
を歩けないことを、神聖なる銀の武器で悶え苦しむことを、俺達に殺されるこ
とを覚悟して吸血鬼になったんじゃねぇのか」
 吸血鬼はますます怒り狂う、フリッツの嘲る笑いが気に入らない、背中の痛
みが気に入らない、あの娘の血を吸い尽くせなかったことが気に入らない、何
もかもが気に入らない。
「コロシテヤル……」
 今度こそフリッツは笑い出した、背後の玲二が気でも狂ったのかと訝しげな
目で彼を見る。
「コロシテヤル? お前、まるきり三流映画の悪役だぜ」
 吸血鬼が文字通りの意味で飛びかかってきた。

 真っ直ぐ。
 ひたすら真っ直ぐ。
 あの忌々しい口を横に引き裂いて、喉を裂いてごろごろうがいをさせてやる。
 その時の苦痛の表情が、瞳が、楽しみだ――!

 ガン、と横から殴りつけられた衝撃があった。
 脇に退いていたモーラがまるで野球のバットを振りまわすように吸血鬼の頭
をハンマーで殴りつけたのだ。
 凄まじい迅さで突進していた吸血鬼の頭蓋骨が身の毛もよだつような音と共
にぐしゃりと砕かれた。
 フリッツがニヤリと笑う。
「ナイスヒット」
 モーラはフリッツの軽口を無視して、ビクリビクリと痙攣を起こし続ける吸
血鬼に近付いて、スレッジハンマーから飛び出した白木の杭を、彼の心臓に狙
いつける。
 吸血鬼の痙攣が次第に収まり始めた、回復したのだろうか、それとも今ので
死んだのだろうか、モーラは一瞬考え込んだ。
 死んでいるはずがない、心臓に止めを刺さなければ。

 勢いよくハンマーを振り下ろそうとした刹那。

 仰向けになった状態でありながら、信じられないスピードでその吸血鬼は床
を這いずり回った。
 モーラもフリッツも無視して、エレンの元へ飛びかかる。
「エレン!」
 躰全体で彼を防ごうとした玲二を右手で吹き飛ばした、彼は壁に叩きつけら
れて、低く呻く。
「チ……チヲ!」
 顎(あぎと)を勢いよく開き、噛みつこうとする。フリッツがサブマシンガ
ンを構えたのを認めて、モーラが怒鳴った。
「ダメ!」
 フリッツがその声で硬直し、吸血鬼の牙がエレンの頚動脈に突き刺さろうと
した時、

 吸血鬼の眉間に刃が深々と埋め込まれていた。

「?」
 吸血鬼はあまりに予想外の出来事に、ポカンと口をだらしなく開いていた、
どうして自分の眉間にナイフが突き刺さっているのか、合理的な説明を教えて
欲しかった。
 エレンの靴の先に仕込まれていたナイフ、彼女は高々と自分の脚を上げて背
後の吸血鬼の眉間にそれを叩きこんでいた。
 次の瞬間、エレンは脚を戻して間髪入れずに吸血鬼の腹部を蹴り反動を利用
して飛び退く。

 吸血鬼はポカンとそれを見つめていた。

 それからフリッツのサブマシンガンが火を吹き、モーラが飛びこんで白木の
杭を吸血鬼に叩きこみ、彼の短い吸血鬼の一生(生きてはいないが)は呆気な
く終わりを告げた。

「嬢ちゃん、やるじゃねぇか」
 フリッツが感心したように口笛を吹く、だがエレンはそんなフリッツにまる
で取り合おうとはしなかった。
「玲二、怪我はない?」
「ああ、それよりエレン、君の方こそ――」
 エレンは黙って首を横に振った、怪我がないということだ。
 その時、ワインセラーからゆっくりと人影が揺れ動いた。
 四人に緊張が走り、いち早く反応した玲二が拳銃を向ける。

 喰屍鬼が現われた。
 ずるずると躰を引き摺っていたその喰屍鬼は、既に灰になりつつあった。
「……日本人(ジャパニーズ)、銃をしまいな」
「大丈夫なのか?」
「ああ、親玉が死ねば、こいつらも土に還るだけだ」
 喰屍鬼はどんどん崩れ落ちていく、さらさらと腐った躰がまるで砂のように
変わっていく。
 やがて、喰屍鬼はただの土くれに戻ってしまった。
 夕闇に溶け込むような声で、モーラがそっと呟いた。
「灰は灰に、塵は塵に、不死なる者に滅びの刻を」
 それは彼等への祈りだったのか、投げつけた呪いだったのか――。
 ともあれ、穏やかな夜と月がやってきた。


                                            to be continued




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